正義と微笑

numb_86のブログ

コンプレックスについてのメモ書き

 コンプレックスについて何か書きたいと思っているので、自分用にメモ。

弱さを認める

 コンプレックスを克服するためには、そのコンプレックスを含めた「在るがままの自分」を、受け入れなければならない。コンプレックスも含んだ自分自身を肯定できなければ、前に進むことは出来ない。

コツは、本人も周囲も「それに対して何かしなければならない」という強迫観念を捨てるということです。
それを「何かしなければならない問題」と捉えることが、既に認めるということを放棄しているのです。


自己を肯定できる人間になるために - 東京家学のブログ 〜不登校を学ぶ〜


 上の記事では、数学が苦手な子供を例として挙げている。まずは、自分が数学が苦手であることを認めるのが肝要である。それが出来ていなければ、いくら数学の勉強を頑張っても、その結果試験でいい点数を取れたとしても、それは逃避なのだ。自己肯定への道は、自身のコンプレックスや欠点を認めるところから始まる。

 ところで、ソフトボールができないことに対して、なぜ一方はコンプレックスをもち、一方はコンプレックスをもたなかったのだろう。この場合、平気で自分がソフトボールのできないことを認めた人は、それを認めることによって、その人の人格の尊厳性が失われないと感じているからである。つまり、そのことについての劣等の認識は彼の自我の中に統合されており、何も安定をゆさぶられないからである。このことはわれわれに大きい示唆を与える。


河合隼雄『コンプレックス』岩波新書p59

自己肯定・他者・異性

 だけどそれは、とても難しいこと。簡単に受け入れられるぐらいなら、最初から囚われていない。受け入れがたいものであるからこそ、コンプレックスになったとも言えるかもしれない。
 どうすれば、在るがままの自己を肯定できるのか。
 再び、先程の記事から引用。

 ありのままの自分で良い、自分は自分で良いんだと思えないのは、自身の弱点が何らかの恐怖や不安に晒されているためです。
 そして、それを決定づけるのは周囲からの目、影響に起因するのです。
 例えば、勉強が苦手だということを周囲が責め続ければ、もちろんありのままの自分で良いとは中々思えないでしょう。
 まずは、周囲からその短所を認めてあげるということから始まります。
(中略)
 周囲が認め、本人が認め、そこから再度見つめなおした時に克服しよう思った時からが、ようやく次のステップになります。


 周囲からの評価というのは、自尊心を培っていくうえで確かに重要だと思う。
 私も、コンプレックスに囚われ、肥大した自意識に振り回されていた頃は、誰かに認めてもらいたがっていた気がする。
 そして、その「誰か」として想定されがちなのが、「恋人」や「彼女」と呼ばれる存在である。

 脱オタクファッションの限界 - 30代からの脱オタク


 この「30代からの脱オタク」は、対人関係やコミュニケーションに強いコンプレックスを持つ男性が、それを克服しようとする過程(いわゆる「脱オタ」)を記録したブログである。そして上の記事では、ブログ主が感じた、「脱オタクファッション」の限界について書かれている。ただオシャレに気を遣うだけでは、「脱オタ」は出来ないのではないかと。
 この記事やコメント欄でのやりとりは非常に参考になるというか、いろいろ考えさせられるのだが、その中に、

winget 2007/07/16 22:31
足りないのは音楽やスポーツじゃなくて、評価者ではないでしょうか。


おたくですが 2007/07/16 22:43
やっぱり、女性(できれば彼女)と服を買ったり選んだりできると
違ってくるんじゃないかと思うのですが。無意識に良い服がほしく
なってきたり、金額が気にならなくなってきたら、もう脱できてるかと。

 というものがあった。これはなかなか的確ではないだろうか。認めてくれる誰かがいれば、心に巣食ったコンプレックスも、和らいでいくと思う。コメントのなかには

asukab 2007/07/17 03:03
好きな音楽を聴いて、体を思いっきり動かして汗をかく――。スタイルなど気にせず、自分が楽しいと実感することをすればいいのではないかと思いました。ジャッジメンタルな人間は、放っておいていいのです。そんな視野の狭い人たちのほうが、かっこ悪いと思うな。

 というものもあり、それはまったく正論で、コンプレックスに囚われている人たちが目指すべき姿そのものだとすら思うが、実践するのは容易ではない。どうしても「誰か」からの肯定や容認を欲しがってしまう。そして特に若年層の場合、その「誰か」とは「異性」であることが多い。恋愛に救いを求めるというか。あるいは、恋人の有無や恋愛経験の少なさそのものがコンプレックスになっていることも多い。

 私自身も、「ありのままの自分を丸ごと受け入れてもらう経験」を欲しがっていた気がする。
 当時十代だった私は、「あなたが大切だ。」の広告に強く共感していた記憶がある。

 だけど、そんな経験はそうそうあるものではない。それに、「受け入れてもらうこと」ばかり期待していては、人間関係は上手くいかない。

参考:「彼女がいない」より、「惚れない」ことのほうが深刻なのでは? - シロクマの屑籠


唯一の処方箋は「経験」

 あるがままの自分を受け入れるためには、「強い自分」というか、確固とした自尊心というか、そういうものが必要だ。
 そしてそれは、他者に認めてもらうことによって、養われていく。
 でも、他者にまるごと受け入れてもらえる経験なんて、そんなにあるものではない。
 じゃあどうする?
 地道に経験を重ねていくしかない、というのが私の結論。身も蓋もないけど。
 ありのままを受容してもらうことは難しいのだから、少しずつ「肯定」を獲得していくというか。他者と関わり合いながら、「受け入れてもらう経験」を少しずつ重ねていく。「ちょっとした承認」を積み重ねていく。一緒に過ごしたり、笑い合ったり、何かをしたり、そういう経験を重ねていき、「自分は自分でいいんだ」という実感を獲得していく。
 先程の数学の子供の例で言えば、両親や教師が、欠点は欠点として認めその上で、その子の存在を認めてあげる。そうしてあげれば、数学が苦手であっても自分という存在そのものが揺らぐことはないのだ、自分という存在は決して劣等なんかではないのだと、皮膚感覚で理解できる。健全な自己評価を築くことができ、コンプレックスに囚われることもない。
 またも私自身の話だが、私も、何かエポックメイキングな出来事があって自尊心を獲得したわけではない。少しずつ、ゆっくりと、いつの間にか、ありのままの自分を認め、自信を獲得していった。いろんな経験や出会いを重ねていった結果として。

 「ひとりでいても何も起こらない。でも人といると、なにかが起こるんですよ」
 ここで肝心なのは、彼がけっして「人と居ると良いことがある」とは言っていない、ということです。それは悪いことかもしれないし、失望するような経験かもしれない。しかしそれでも、偶発的に起こる「なにか」の価値を受け入れよう。そう彼は主張しようとしているようにも思えます。


http://www.nhk.or.jp/fnet/hikikomori/2003/column/col2a.html#

目指す姿は

 欲しいのは自由。執着なく、囚われることなく、自由自在に振舞うのが理想。

 つまり、『脱オタ』前の私は「自分にはゲームやアニメしか無い」と心理的に依存していたが、『脱オタ』後の私は「自分にはゲームやアニメ以外にも沢山の選択肢がある。けれども、私はそのなかからゲームやアニメを選ぶ」ようになった。初対面オフ会で、自虐やネタ臭さでごまかすことなく「自分はシューティングゲームを専攻とするオタクです」と名乗れるようになったのも、この頃からだった。


あるオタク精神科医の歴史 - シロクマの屑籠


 上記のような振る舞いは、オタクである自分を受け入れているからこそ、出来る。オタクであることにコンプレックスがあるなら、こんなことは出来ない。それこそ、「自虐やネタ臭さでごまか」さざるを得ない。
 この記事にはシロクマ先生の歴史が書かれている。文脈が違ってしまうかもしれないが、コンプレックスを受け入れていく過程としても読め(るような気がして)、面白い。
 ちなみに、シロクマ先生の脱オタについては、こちらにより詳細に書かれてある。この記事が書かれた頃(2006年頃)の私は、コンプレックスに囚われまくっており、必死に足掻き、苦しんでいた。そんな私にとって、先輩方のこういう体験記は本当に励みになったし、触発された。