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正義と微笑

numb_86のブログ

日本のウェブは「輿論」を作りだせるか

 以前、自由主義を3つの構成要素に分けた*1が、そのなかで民主主義についてはまだ触れていなかった。
 民主主義とソーシャルメディアについて、考えてみる。


 ちょっと考えただけで何となく、民主主義とソーシャルメディアは相性がいいように思える。個人の情報発信を容易なものにするソーシャルメディアが普及すれば、今まで以上に手軽に意見の交換を行えるようになる。政治参加は容易になり、活発な議論が繰り広げられるようになる。
 これまでは、公共の場で意見を述べようとしても、それが出来る人は限られていた。一介の市民が何を思い、考えようとも、その声が届くことはなかった。情報発信の手段は、強者に独占されていた。
 しかし今では、誰でも簡単に、自分の意見を公表できる。また、情報収集も容易になった。これまでは大手マスコミが報じる内容を信じるしかなかったが、今では、ネットを使っていくらでも自分で調べられる。
 「自由な意見の交流」や「一般市民の政治参加」に、ソーシャルメディアは大きく貢献してくれるように思える。


 だけど、そんなに上手くいくだろうか。確かにソーシャルメディアの普及は進んでいるし、個人にも情報発信の機会が与えられるようになった。だけどそれはあくまで、手段が用意されたということに過ぎない。重要なのは、技術ではなく、使う側の意識だ。どんなに素晴らしい、未来な感じの技術が提供されたって、それを使うのが愚者ではどうにもならない。


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 昔、梅田って人が「日本のウェブは残念」と言ったらしいけど、こういうニュースを聞くと本当に残念な気分になる。ソーシャルメディアという武器を手に入れても、それをまともに使えないんじゃ、意味がない。


 そもそも、「民主主義」はそんなに素晴らしいものなのだろうか?
 2005年の小泉圧勝にしろ、民主党への政権交代にしろ、それは本当に「自由な市民が一人一人自分で調べ、考え、投票した結果」なのだろうか?「何か知らんが「構造改革」(「政権交代」でも「どげんかせんといかん」でも可)っていい感じっぽいから投票しよ♪」というのが実態ではないの?
 「多数者の専制」という言葉があるけれど、メディアに扇動された大衆が少数の良識派を踏み潰していくのが、民主主義の実態のように思えてならない。まことに、日本の民主主義は「残念」である。


 メディア史を専攻している佐藤卓己は、東谷暁によるインタビューにて、次のような話をしている。

 そもそも「輿論」という言葉は御輿を担ぐように、一人一人がその意見を担ぐという、眼に見える数としての意見です。担ぐ主体、つまり個人があるのが「よろん」ですね。ところが、「せろん(世論)」というのは、(中略)戦前は非常にネガティブな意味で言われていた言葉です。こちらは世間一般の雰囲気という意味で、一人一人が担いだりするような意見ではなく、群集的なムードであったり、感情であったりする。


表現者』2006年1月号 pp60-61


 ソーシャルメディアは、民主主義の成熟に貢献できないのだろうか。「世論」を強固なものにし、衆愚政治を後押しするだけなのだろうか。


 そうではない、と信じたい。
 世論を生み出しているのは大衆だが、その元凶となっているのは、テレビを中心とした既存の大手メディアである。大衆はただ、大手メディアが生み出した「空気」や「雰囲気」に乗っかっているだけである。
 そして、冒頭に書いたように、ソーシャルメディアによって、個人でも情報の発信や収集の機会が与えられるようになった。誰でも、自由に調べ、考え、発信し、議論できるのだ。もはや既存のメディアに頼る必要はない。
 ソーシャルメディアという新しい技術を駆使すれば、もっと、個が主体となった社会が到来するかもしれない。そして、一人一人の個が交流し、建設的な議論を積み重ねていけば、「世論」ではない「輿論」が、この日本にも生まれるかもしれない。その時こそ、日本の民主主義が成熟し、「残念」なものではなくなるのだろう。


 ただまあ現実には、難しいかもしれない。現実社会で実践できないこと(民主主義の成熟)が、どうしてネットで実践できるんだって話ですよね……。俺も社会人になってから本を読まなくなったなあ……。