正義と微笑

numb_86のブログ

人の心を鍛える場所としての、コミュニティ

 学生の頃からコミュ二タリアニズムに興味があり、最近また勉強してみようかなと思い、本を読んだりしてる。
 今日は、コミュ二タリアニズムとは直接関係ないかもしれないけれど、コミュニティというものとコンプレックスの関係について、考えてみたい。


 前回と前々回の記事で、コンプレックスについて思うところを書いてみた。
 コンプレックスそのものは「悪」ではない。だけど、コンプレックスに振り回されることで人は、望ましくない言動をとってしまう。重症の場合、社会に上手く適応できなくなり人生が困難になってしまうことも。コンプレックスといかに付き合い、超克していくかが、重要となる。
 そしてその第一段階は、受け入れること。コンプレックスの存在を認め、受け入れること。


心理セラピストに教わった「傷つきやすい性格の原因と直し方」 ― 心のシャドウとは何か? : earth in us.
自己を肯定できる人間になるために - 東京家学のブログ 〜不登校を学ぶ〜


 だけど、そう簡単にコンプレックスを認めることは出来ない。認めてしまえば自分の価値が下がってしまう、存在が揺らいでしまう、そんなふうに思えて、受け入れることが出来ない。というか単純に、「劣っている自分・ダメな自分」なんて認められるわけがない。
 コンプレックスは倒すべきものではなく、受け入れるもの。その視点は重要だ。だが、受け入れるってどうやって?


 前置きが長くなった。今回俺が言いたいのは、「一個人がコンプレックスを受け入れていく過程において、コミュニティが果たす役割は大きいのでは?」ということ。
 コンプレックスを受け入れられるようになるためには、「強い自分」でなければならない。ここでいう強さとは、まあ、自尊心とか自己肯定感のこと。そして、そういう心の強さは、人との関わり合いのなかでしか、育っていかないのではないだろうか。


 コミュ二タリアニズムには、そういう論点はないのかもしれない。だが俺は、コミュニティ・共同体に、コンプレックスを解消させていく場としての役割を、期待している。個人が自尊感情を培っていくための、場所。そういう視点でコミュニティを捉えるのも、面白いんじゃないだろうか。
 自尊心を獲得するために必要なのは、他者からの承認。他者とコミュニケーションを重ねていくことで、「承認」を得ていく。そのための場としての、コミュニティ。



 分断され、砂粒となった個人に、自尊心は育たない。絶えず不安にさらされる。
 「自分は間違っているんじゃないか?」
 「自分はダメなんじゃないか?」
 他者との関わりの中でのみ、存在に自信を持てる。


 自分の存在に対して不安や恐れを抱き、「こんな自分ではダメなのではないか」と自信を喪失する。そんなときに自分で自分を鼓舞しても、無意味だ。一時的に誤魔化せたとしても、すぐに不安になってしまう。

 「自己」の存在は「自己物語(自分についての物語)」によって現実性を与えられる。この「自己物語」は、自己を「語る者の視点」と「語られる者の視点」に二重化して引き裂くことによって、「自己言及」のパラドックスを抱え込んでいる。このパラドックスは、物語の妥当性・完全生・客観性を構造的に絶えず宙づりにしているが、この宙づり状態こそが「自己物語」の最も重要な特徴である。


川端祐一郎「我々は「居場所」を作り出せるのか」『表現者 2008年9月号』ジョルダン株式会社

 自作自演で不安や恐怖を誤魔化しても、虚しいだけ。
 だけど周囲の誰かが、自分の価値を認めてくれたら?取り敢えず自分は周囲に受け入れられているようだと、認識できたら?
 不安は少しずつだけど、緩和されていく。

 自己物語がそれ自身を支え切れないという事実は、物語の成立に「他者」を必要とすることの理由の一つだ。つまり、他者が自己物語に「納得」を示してくれることによって、その物語の宙づり状態は(少なくとも一時的に)覆い隠され、初めてリアリティを手にすることができるのである。


前掲書


 難しいのは、「他者からの承認を獲得すること」と「他者からの評判を気にすること」は全く別物であるということ。充分な自尊心を持ち、揺るがない自我を形成している人物はむしろ、周囲にどう思われるかなどまったく意識せずに突き進んでいくだろう。それが俺が描く理想の人物像でもある。
 これについても今度考えてみたい。




表現者 2008年 09月号 [雑誌]

表現者 2008年 09月号 [雑誌]