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正義と微笑

numb_86のブログ

なぜ電車のなかで女子高生が隣に座ってくれると嬉しいのか

 電車でJKが隣に座ってくれたときの社会的に認められた感は異常 | ニュース2ちゃんねる

 スレタイに共感したことは何度もあるが、今なお、これを超えるスレタイに出会ったことはない。

78:名無しさん@涙目です。(千葉県):2011/08/15(月) 20:18:54.06
若い女は見ず知らずの男を社会的に認めるチカラがあるよね


 嗚呼!
 どうして女子高生はただそこにいるだけで、男たちにここまでエネルギーを与えてくれるのだろう!

 もちろん俺とて、例外ではない。何とか引きこもり状態を脱して、ビクつきながらも外に出ていた頃だろうか。俺の隣の席だけ空いてると不安になるし、女子高生が隣に座ってくれると、すごく嬉しかった。安心した。

 性欲とか、そういった類のものとは、全く別種の気持ち。「女子高生っていい匂いだなあ、クンカクンカ」「うひょー!カワイイよお!ペロペロ」とかでは、全くない。まさに、「社会的に認められた」って感じがしたんだ。


 なぜだろう。


 判断基準が自分のなかに無いからだろうな。何が正しいのか、自分で決めることが出来ない。だから、女子高生に決めてもらってたんだ。女子高生が隣に座ってくれるかどうかで。



 自分が正しいのかどうかですら、他人に決めてもらっているような状態。自分のことを自分で決められない。

 しかも、ただ基準が不足しているだけなら、まだいい。そうではなくて、「自分は間違っている」のではないか?という不安が、デフォルトになってしまっている。
 常に、「不適切感」とでも言うべきものが、俺にまとわりついていた。俺はここに居てはいけないのではないか、俺は場にそぐわないのではないか、俺は何か間違っているのではないか。漠然と、だが確実に、俺の周りにあった。そういう漠然とした、だけど重々しい不安に、俺は支配されていた。

 そんな状態は苦しいから、「自分は間違っていない」ということの「証拠」を見つけようとする。自然と。だけど自力ではどうしても、自分を肯定できない。だから、他者にそれを求める。
 周囲の様子やリアクションを見て、自分がその場にふさわしいかを、判断する。周りの人たちが奇異の目で見ていないようなら、セーフ。そんな感じ。「よしよし、俺はキモくないんだな」と安心した。


 周囲の人たちは、判定者であり、審査員だったんだ。


 しかし、その判定者たちは、全員平等というわけではない。重要度が全然違う。
 あの頃の俺にとって、女子高生が、最重要の判定者だった。そういうこと。その判定で、雌雄が決する。決定的な意味を持つ。
 女子高生こそが、俺の神だったのだ。

 何かを象徴していたのだろう。俺の中の何かを。俺の中にある、不適切感や不安の発生源となっている何かの、象徴。それが、女子高生だった。 



 http://d.hatena.ne.jp/shimobayashi/20120226/1330187328


 すごく共感した。と同時に、どこにでもある、普遍的な話なのかなとも思った。俺はそこまで二次元にはハマれないから、二次元美少女ではなく、三次元女子高生だったけど。どこにでもある、よくいる若者の話。俺もこの人も、いずれは過剰な自意識が削られ、修正され、「大人」になっていくのだろうか。

***


 余談。

本で読んだんですけど、他人や共同体に承認されないときは大袈裟なくらいに自己承認するといいみたいです。
下林さんはツイッターで「洗濯した。えらい」「洗濯物干した。えらい」と呟いてますが、そういう自己肯定の積み重ねがすごく大事らしいです。

Twitterのアレは意図的にやっています、その通りだと思います。


 これもその通りだと思う。
 俺は昔からオフラインで日記を書いてる。昔は自己嫌悪の感情を剥き出しでぶつけていたし、今も落ちたときはそうなんだけど、いつからか、意図的に自分を褒めたり鼓舞したりする傾向が強くなっていった。