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正義と微笑

numb_86のブログ

どうして女子高生は、俺たちの神だったのか

 以前、こんなことを書いた。

 あの頃の俺にとって、女子高生が、最重要の判定者だった。そういうこと。その判定で、雌雄が決する。決定的な意味を持つ。


 女子高生こそが、俺の神だったのだ。


 何かを象徴していたのだろう。俺の中の何かを。俺の中にある、不適切感や不安の発生源となっている何かの、象徴。それが、女子高生だった。


なぜ電車のなかで女子高生が隣に座ってくれると嬉しいのか - 正義と微笑


 このときは敢えて踏み込まなかったが、今回はもうちょっと、考えを進めてみる。女子高生が象徴していたものとは、一体何だったのか。


 そんなところか、ざっと書いてみると。
 こういうのが、俺のコンプレックスというか、精神のアキレス腱になっていて、そこを突かれると非常に弱かった。今もそうかもしれない。
 「女子高生」ってのは、そういうものを連想しやすいんだ。


 コンプレックスの中身は人によって違うから、何が「神」となるかは、人によって違う。また、同じようなコンプレックスを抱えていたとしても、何を「神」とするかは人それぞれだ。冒頭のエントリに書いたように、二次元美少女を崇める人だっているのだろう。


 コンプレックスを投影する対象は、何も人だけではない。「場所」もそうだ。
 ひきこもりから脱却しようと足掻いていた頃、なんとか外に出るようにしていた。最初は「外に出る」こと自体がキツかったんだけど、だんだん、「わりと行きやすい場所」と「そうでない場所」があることが分かってきた。いや、最初からそう思ってたけど、事実、そうだった。

 行きやすい場所としては、コンビニ、書店、役所、などか。いっぽうで、服屋(「ショップ」って言わないとダメなん?)とか美容室とかは、かなり厳しい。若い女の店員とかだった日にゃあ、とてつもなく困る。こういう場所は、あの「不適切感」とか「漠然とした不安」を、抱きやすい。

 こういう場所もまた、先程の「精神のアキレス腱」を連想しやすいのだろう。


 「人」にしろ「場所」にしろ、そこに自分の心の裡を投影しているのであり、対象そのものを見ているわけではない。
 俺は女子高生を恐れ、そして崇めていたけど、目の前の女子高生そのものを見ていたわけじゃない。その女子高生がどんな人間なのか、それはどうでもいい。「女子高生」という属性を持っていればそれでよく、そこに勝手にいろんな意味を与えて、一人で勝手に一喜一憂していた。


 人間関係が苦手な人は、「人を人として見る」という事が出来ないんじゃないだろうか。特に、中途半端な非コミュは。
 大学生、特に1、2年生の頃の俺は、そういう傾向がすごくあった。
 ゲームしてる人じゃないと伝わらないけど、周囲の人間をNPC のように捉えてしまうんだ。ドラクエの村人って言えば、分かりやすいか。AIで動いているというか、中身を持った人間として、上手く捉えられないというか。自覚してても、上手くいかない。


 これは懺悔でもあるんだけど、「人と上手く関われない」とか「人が怖い」とか言ってる奴の一部は、そもそも他人に興味がないんだよ。すごく乱暴な言い方をすれば、他者を、道具のように見てしまっている。
 この記事や冒頭でリンク貼った記事の文脈で言えば、単なる「判定者」に過ぎない。自分が受け入れられているか、自分が間違っていないか、それを図るための尺度としてのみ、周囲の人間が存在している。
 そんな風にしか他者を捉えられない奴が、人と上手く関われるわけないのにね。でも、うすうす気付きながらも、どうにもならなかったんだ。