正義と微笑

numb_86のブログ

「自信の無い人間は愛されないけど、愛されなければ、自信を得られない」というパラドックス

 先日見かけたツイート。



 全て、その通りだと思う。
 こういったことには以前から興味があって、何回か書いたことがある。

 自作自演で不安や恐怖を誤魔化しても、虚しいだけ。
 だけど周囲の誰かが、自分の価値を認めてくれたら?取り敢えず自分は周囲に受け入れられているようだと、認識できたら?
 不安は少しずつだけど、緩和されていく。


 人の心を鍛える場所としての、コミュニティ - 正義と微笑

 周囲からの評価というのは、自尊心を培っていくうえで確かに重要だと思う。
 私も、コンプレックスに囚われ、肥大した自意識に振り回されていた頃は、誰かに認めてもらいたがっていた気がする。
 そして、その「誰か」として想定されがちなのが、「恋人」や「彼女」と呼ばれる存在である。


 コンプレックスについてのメモ書き - 正義と微笑

 為末さんや安田さんが仰ってることは、まったくその通りであり、俺も同じ考えだ。


 他者に期待していては、他者からの愛を待っていては、いつまで経っても自己を肯定することは出来ない。
 他者からの視線や評価に振り回されなくなってこそ、自分を確立できたと言える。
 他者からの愛によって自分を肯定している限り、それは本当の自己肯定とは言い難い。他者から評価されなくなった途端、自信を喪失してしまう。
 人の顔色を窺ってばかり、人にどう思われるかを気にしてばかり、そんな態度を身に付けてしまう懸念もある。
 「他人はあくまで他人だ」といえる強さを得ることが、望ましいと言える。


 そうは言っても、だ。


 自分自身だけで自分を肯定できるほど、人は強くない。自己満足なんて言葉があるけど、実際には、自己だけで満足することは難しい。
 自分の存在を肯定するためには、何らかの「根拠」が必要だ。
 人によってそれは違うのだろう。仕事かもしれないし、カネや権力かもしれないし、創作などの自己表現によって自分を肯定するという形も、有り得るかもしれない。
 だが、やはり多くの場合、他者からの評価・承認というものを必要とするのではないか。何らかの形で。


***


 自分自身で自己を愛してあげることが大切。だけど、他者から愛されることなくして、自分を愛することなど出来ない。
 そして、これが今回一番言いたかったことなのだが、自分を愛せないような、そんな不安げな心象風景が見え隠れするような人間は、他者からも愛されにくい。
 どうしようもないような矛盾が、ここにある。


 自分を愛したい。自分の存在を肯定してあげたい。
 そのためには、他者に受け入れてもらうという体験を、それなりに味わう必要がある。他者に認められて初めて、「ああ、俺は俺でいいんだ」と思えるのだから。
 しかし、自信なさげな、うつむきがちな心や態度は、それだけで、他者から承認・評価される機会を激減させる。
 だからもっと自信を持ちたい。胸を張って堂々と振る舞いたい。自分を愛してあげたい……。
 終わらないループ。


 他にも矛盾はある。
 俺は基本的に実践や経験を最重視しており、それなしでは残念ながら何も得られないと思っている。
 知識や思索も大事だが、経験しないことにはどうにもならない領域というのは、間違いなく存在する。
 自己肯定感の獲得にも、そういう側面があると思う。
 先程の「他者からの承認」も含めて、とにかく経験を重ねていくしかなく、そのためにもひたすら実践していくしかない。行動と、そこから生まれる成功、失敗、名誉、屈辱、達成感、etc...。そういったものこそが、自己肯定感や自尊心を培っていくうえで、大切だと思う。


 自信や勇気を獲得するためには、それに向けた行動が、特に、ある種の「挑戦」が必要となる。挑戦と、そこから得られる経験こそが、人を育ててくれる。だけど、自信のない臆病な人間に、何がしかの「挑戦」など、出来るはずもないのだ……。


 自信や勇気のある、そういう人間になりたい。
 だから、いろんなことに挑戦して、経験を重ねて、自分の心を鍛えたい。
 だけど、自信も勇気も無いから、怖くて前に踏み出せません。新しいことへの挑戦なんて、怖くて出来ません。
 完全に袋小路だ。


 自己肯定感も勇気も持っていないから、人と深く関わることも、何かに挑戦することも、出来ない。それはつまり、「成功体験」やら「他者からの承認」やらを入手する機会を、著しく失ってしまうということだ。


***


 どうすれば、この矛盾を突破できるのだろうか。
 自分にも他者にも愛されていないような貧弱な状態で、いかにして、他者から評価・承認されるような、堂々とした自分らしい振る舞いをすればいいのか。
 勇気も自信もないような臆病な状態で、どうすれば、前へと一歩踏み出して、その人なりの試練に挑めるのか。


 個人的にこれは、非モテ脱オタとよばれる類の問題の核心的な部分のひとつであり、それでいて、どうにもならない問題だと思っている。
 勇気なんて簡単に手に入るものじゃないし、誰かが替わってあげることも出来ない。ひとりひとりが、自分でどうにかするしかない。状況も人それぞれな訳だし、これといった解決策は残念ながら存在しない。


 だけど、それではあまりにも身も蓋もないので、ちょっと考えてみる。


 理屈や方法論ではなくて、強烈なエネルギーが鍵となるかもしれない。
 俺は、極端に言えば、知識よりも経験や実践を重視していると先ほど書いたが、同じように、理屈や理論よりも、直観や情念が大事だと考えている。俺自身は理屈っぽいというか、頭でっかちなところがあるけれど、最後の最後では結局、理屈を越えた直観や感情がモノを言うのではないだろうか。


 今回書いた「矛盾」を乗り越えるために必要なものも、緻密な計画や、人間関係や心理学に対する豊富な知識やノウハウなどではなく、「乗り越えたい」という強い気持ちだと思っている。
 ポジティブになれとか、行動的になれとか、そういうことじゃない。
 もっと、本能に近いもの。自分を突き動かすエネルギー。ドロドロした、どうにもならない情念。


 俺自身も、「自分が憎い」という強い感情をエネルギーにして、自分を変えていった。自己嫌悪をエネルギーに変えて、足掻いてきた。
 外に出ることも、買い物することも出来ない自分。そんな自分が憎くて、不甲斐なくて、泣きたかった。やっと外に出れるようになったと思ったら、今度は、人とろくに喋れない自分の姿を、目の当たりにすることになる。
 そんな情けない自分が嫌いだったし、憎かった。変わりたいと強く願った。
 声を掛けたかったのに、何もせずに通り過ぎてしまう。せっかく声を掛けてもらったのに、アウアウしてろくに話せずに終わってしまう。伝えたいことがあったはずなの、素知らぬ顔でやり過ごしてしまう。
 失敗するたびに、恥を掻くたびに、逃げ出してしまうたびに、強い自己嫌悪と後悔に襲われた。
 「俺はどうしようもない人間だ。クズだ。変わりたい。もっとマトモになりたい」
 そういう、衝動のようなエネルギーに突き動かされながら、なけなしの勇気を振り絞り、人と関わったり、新しいことに挑戦したりしていった。


 上記はあくまで俺の場合だけど、こういった理屈を越えたエネルギーが、最終的に人を動かすのではないだろうか。
 損得勘定では、壁を超えられない。
 「分かっちゃいるけど出来ない、どうにもならない」からこそ問題なのであり、それはもう理屈ではどうにもならない。頭でいくら考えても、心は行動を拒否する。
 だから、理屈や理論で考えたり、一生懸命にネットで調べたりするのはもう止めにして、心を直接刺激するようなエネルギーを喚起して、盲目的に突き進んでいくしかないように思う。
 タイトルに書いたような矛盾を乗り越えようとするとき、理論や知識はさほど役に立たないのではないかと、俺は思っている。