正義と微笑

numb_86のブログ

福祉としての自己肯定感(社会編)

 昨日の続き。
 昨日は、個人がこの社会で生きていく上で自己肯定感はとても重要だ、という話をした。それが著しく不足していると、個人としていろいろ困難になると。
 今日は、社会全体としても、自己肯定感の不足というは喫緊の課題なんだということを、訴えてみる。社会の維持・安定のために不可欠であり、「俺は満たされているから関係ない」と思っている個人にとっても他人事ではないのだ。


***


 自己肯定感が不足しがちで、誰とも満足につながれない、常に不安感や不適切感に支配されているような、居場所のない若者。そういう若者が増殖していくと、どうなるのか。


 彼らの行き着く先とは。


 社会全体という観点から自尊心の問題について考える時、いつも頭によぎるのが、秋葉原無差別殺傷事件だ。
 加藤智大のとった行動は極端なものだし、彼の育った環境もまた、極端なものであったようだ。
 だけど加藤は、極端ではあったけど、同時に、象徴でもあった。
 加藤智大という存在を、極端なものとして排除してしまうのは、とても危険だ。


 当時、事件の凄惨さと共に話題になったのが、加藤が書き込んでいたとされるネット上の掲示板。
 その書き込みの内容が、大きく取り上げられた。
 加藤に共感し、彼を讃える若者まで現れた。


 マスコミはなぜか「非正規雇用」「貧困」「(主に学歴的な意味での)エリートからの転落」という部分に注目していたが、問題の本質はそこではないだろう。
 加藤が訴えていたのは「貧しさ」ではなく、「寂しさ・孤独」であった。
 加藤が呪詛を浴びせていたのは「正社員」ではなく、「イケメン・恋人たち」であった。


 人とつながれず、豊饒なコミュニケーションを経験することなく、低い自己評価に苦しみながら鬱屈と過ごす、ありふれた若者。そこに、劣悪な生育環境や過酷な労働環境が組み合わされ、加藤智大という「平凡な狂人」が生まれた。
 この事件の一番恐ろしいところは、加藤が「平凡である」ということだ。
 ただの私の印象だが、世間を震撼させるような凶悪犯罪者は、その言動や主義主張が意味不明なものであることが多いように思う。庶民には理解できないような理屈や嗜好を持っている。
 だが加藤は、すごく、普通なのだ。犯行の凄惨さに比べて、事件の動機・動因が、あまりにも、ありふれている。常人にも理解できるものばかりだった。だからこそ、加藤に共感する若者も少なからず現れたのだろう。


 我々は、通り魔事件を起こしたりはしない。
 自己肯定感を抱けずに苦しんでいる若者は、ものすごく多いと思う。現代日本では、まったく珍しくないだろう。だけど彼らの99.9%は、真っ当に生きている、あるいは、生きようとしているはずだ。
 我々と加藤智大は、どこかで、根本的に違う。
 だけど、全く違う次元にいるのかと言えば、それは違うと思うのだ。
 もしかしたら、我々の延長線上に、加藤智大にいるのではないか?
 そんな風に考えてしまうし、その疑問・不安を否定するのは簡単ではない。


 繰り返すが、加藤智大は、きわめて平凡な、狂人であった。
 彼の心象風景は一般的なものであり、加藤と同じような孤独・自己否定・自己卑下を抱えながら暮らす若者は、そこらじゅうにいる。彼らを放置していていいのだろうか。
 彼らは危険だから、犯罪者予備軍だから、排除しよう。そういうことじゃない。それでは何も変わらない。
 「ウハwww コミュ障www キモッwww」
 そう言って彼らを放置・排除し続ければ、我々はまた、手痛いしっぺ返しをくらうのではないか?


 余談だが、加藤智大は実はモテていたとか、異性との交際経験があったとか、そういう話を聞いたことがある。その真偽はよく分からないが、どちらにせよ、あまり重要ではない。
 重要なのは、本人がどう思っているかだ。
 これは、自己肯定感の問題全般に言えることだが。
 文字通り、自分で自分を肯定できるかが、問題になってくる。そこでは、他者から評価されているかは、本質ではない。周囲から評価・承認されていても、本人がそのように感じることが出来なければ、やっぱり苦しいのだ。


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 参考資料
 ・居場所を削り合う社会
 ・川端祐一郎 「我々は「居場所」を作り出せるのか」 『表現者 2008年9月号』ジョルダン株式会社


 川端氏の論考は、加藤智大の事件について、とても丁寧に論じてあります。私が「社会的包摂・排除」という言葉を最初に知ったのも、この論考でした。下記の論壇誌に掲載されているので、ぜひ。


表現者 2008年 09月号 [雑誌]

表現者 2008年 09月号 [雑誌]