正義と微笑

numb_86のブログ

適切な規制、そのためのガイドラインとしての、コミュニタリアニズム

 ごく私的なメモ。


 以前の記事にも書いたかもしれないが、俺は、ネオリベラリズム的な考え方に強い違和感や不信感を抱いている。競争の礼賛、市場万能主義、そういったものに。
 「政治」や「社会」よりも「経済」や「効率」を上位に置き、経済の論理に、政治や社会を従属させる。それはやっぱり違うだろうと、そう思っている。


 じゃあどうするのか?やっぱり、何らかの「規制」をしていくしかないだろう。
 「規制」というから印象が悪いのであって、ルールでも制御でも、何でもいい。


 まあ、実際、社会のマイナスにしかならないような、そういう余計な規制があるのも事実ではある。
 時代遅れなものであったり、特定の利害関係者のための規制になっていたり。実情に見合わないチグハグな規制もあるのだろう。規制緩和を叫ぶ人たちの気持ちも、分からなくはない。


 でもそれは、規制という存在そのものが悪いのではなく、その規制をつくった人がアホだったというだけの話である。あるいは、時代が移り変わり、規制が実態に見合わなくなっていたり。その個別の規制が問題なのであって、規制全般を否定的に捉えるのは、違うのではなかろうか。
 大事なのは、どの規制を撤廃・改変していくか、これからどんな規制をつくっていくか、そういったことのはず。
 「規制」という存在そのものが、否定的に扱われすぎている。そんな気がしてならない。


 「適切な規制をつくる」ということ自体が、難しいし、非現実的。そういう指摘も分かる。
 俺だって、人間の理性や知識だけで完璧な社会を運営していけるとは、思えないよ。それは驕った考え方だと思う。社会主義の失敗を持ち出すまでもなく。
 しかしだからといって、市場なり経済論理なりに任せりゃ上手くいくってのは、それはそれで、社会主義並みに時代遅れな考え方だと思う。
 俺たちはやっぱり、適切な規制をつくっていくべきだし、不適切な規制は撤廃していくべき。そうやって経済を制御していく努力を、放棄すべきじゃない。


 大事なのは、規制をつくる際の、原理原則だ。
 何を守るのか、何のために規制をするのか。
 そういったことを明確にしておかないと、クソみたいな、既得権益層のための規制ばかりが、生まれてしまうだろう。今の日本のように。


 さっきも書いたように、「経済」や「効率」を最上位に位置づけるのは間違ってると、思っている。経済効率よりも大事なものがある、経済よりも大切な「価値」がある、そう思っている。
 じゃあその、俺たちが守るべき「価値」ってのは、具体的には何なのだろう。
 よく分からないってのが、正直なところだ。
 「守るべき価値」があるってのは、何となく、感覚的に分かる。だけど全然、言語化出来ない。恐らくその「価値」こそが、規制を運用していく際の原理原則になるのだとは思うのだけれども。


 俺たちが守るべき価値。それを知るヒントを得られるのではないかと、コミュニタリアニズムに期待している。コミュニタリアニズムの知見に触れることで、何かを得られる気がしているんだ。