正義と微笑

numb_86のブログ

リベラリズムとコミュニタリアニズム、「個人」を巡る認識の違い

 久しぶりに、コミュニタリアニズムへの関心が甦ってきた。
 それで何回かブログに書いたりしたけど、多分、読み手の人には上手く伝わってないと思う。
 そりゃそうだ。俺自身が、よく分かってねえんだもの。
 一口にコミュニタリアニズムと言っても様々な切り口があるし、何より、俺自身の勉強量が絶対的に不足している。頭の中にあるものを言葉にして出すことが、上手く出来ずにいる。
 ということで今回は、他でもない自分のために、思考を整理してみる。
 言うまでもないけど、あくまでも俺の自己流の解釈であり、考え方ですので。あしからず。しかも、論点の整理を優先させるため、ものすごく簡略化してあります。


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 コミュニタリアニズムの特徴のひとつは、個人を、社会の関係性の中で生きているもの、と捉えるところにある。
 この特徴は、リベラリズム自由主義)と比べると、分かりやすい。


 リベラリズムではまず、「自由な個人」というものを出発点にして、考えを進めていく。自由で、平等、無色透明な、どこにも属していない個人。それが全ての前提となる。
 もちろん、そういった個人も実際には、社会のなかで生きていくことにはなる。しかしそれはあくまで、個人の選択、その結果によるものと考える。まず何よりも最初に「個人」というものがいて、それが各人の選択で、誰かと協力したり、誰かと組織をつくったり、誰かと契約を結んだりする。そのうち、組織同士の協力関係や契約関係が生まれるだろう。複数の組織を統合する、さらに大きな組織が生まれたり。そうやって、社会がつくられていく。
 かなり大雑把に説明したが、リベラリズムは基本的に、そのように考える。まず最初に、「自由な個人」ありき。


 これに対してコミュニタリアニズムでは、そのような「自由な個人」という前提自体が間違っているとする。
 そんなものはどこにも存在せず、個人は必ず、社会や他者との関係性のなかで生きている。そこから自由であるということは、あり得ない。
 重要なのは、先天的に、そうであるということ。そういう定義であるということ。各人の意思や選択の以前に、最初から、社会の中に埋め込まれ、溶け込んで、生きている。
 何もない真っ白な空間に、無色透明な「個人」として生まれてくるわけではない。いい悪いではなく、厳然たる事実として、そうなのだ。必ず、何らかの意味や文脈を背負って、何らかの「色」を帯びて、生まれてくる。それはその後の人生でも同じ。いいものか、悪いものかは分からないけど、必ず何らかの社会との関連性を持って、生きていかざるを得ない。
 コミュニタリアニズム(に関心のある俺)は、そのように考える。「個人」を、そのようなものとして捉える。


 このように、リベラリズムコミュニタリアニズムとでは、出発点、思考の前提が、異なる。なので当然、そこから導かれる、各種の提言や社会に対する考え方というものも、大きく異なってくる。


 例えば、前回の記事に書いた「規制」というものに対しても、両者の考え方は大きく異なる。
 必要に応じて適切な規制を設けるべき、という点では、両者は一致する。
 どちらも、無制限の自由を認めているわけではない。時と場合によっては、個人の自由や権利を制限することもやむなしと、考える。だけどそこに至るアプローチは、大きく異なる。


 リベラリズムは当然、個人というものは生まれながらに自由であると考えるから、自由を侵害されるのをよしとしない。自由が制限されていいのは、原則的に、他者の自由や権利を侵害しかねない時のみであるとする。たとえば、他者を殺す自由とか、他者からモノを盗む自由とかは当然、認められない。それによって自由や権利を侵害されてしまう人が出てくるからだ。
 みんなが「自由だあッ!」と叫んで好き勝手に暴れ回れば、却って自由は損なわれる。だから、そうならないように、各人の自由が最大限保障されるよう、お互いに不可侵条約を結ぶ。その限りにおいて、個人の自由や権利は制限される。リベラリズムの考え方はだいたい、そんな感じ。規制を設けるときも、そういった考え方に基づいている。


 一方の、コミュニタリアニズム。こちらは、個人というものは最初から社会のなかに生きていると、考える。だから規制を設けるときも、「社会の保護・維持」といった視点が、持ち込まれる。
 可能な限り個人の自由を守るべき、そう考えるのは、リベラリズムと同じ。だけどそもそも、その「自由な個人」というのは、社会の中で生きており、社会という基盤のうえに、生きている。だから、いくら個人が自由であるとはいえ、その社会そのものを破壊するような行為は、制限されなければならない。社会が崩壊・混乱すれば、個人が伸び伸びと生きることも難しくなるのだから。
 直接的には他者に迷惑を掛けないような行為であっても、個人が拠って立つ社会、その健全な維持を著しく妨げるような行為は、制限しなければならない*1。すごく大雑把に言うと、コミュニタリアニズムはそのように考える。


 もちろん実際には、こんなに単純に二つに分けることは出来ない。先ほど例に出した「他者を殺す自由を認めない」というのも、他者の自由を守るためのものであると同時に、社会の秩序を守るためのものでもある。
 ただ、規制や自由といったものに対して、こういった全く異なる二つの考え方があるということ、それを知ることには、それなりの意味があると思う。
 重要なのは、自分がどちらの考え方を取るかというよりも、こういう考え方があるということを、意識することだ。目に見える具体的な施策にばかり気を取られるのではなく、その背景にある、社会観や世界観、思想といったものを、認識すること。そうすることでより深く、考え、議論することが出来る。議論が噛み合わず、延々と不毛な平行線を辿るようなことも、減るだろう。


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 コミュニタリアニズムについて紹介するというよりは、俺の考えを垂れ流す感じになってしまった。特にリベラリズムについては、そのなかでもさらに様々な論者・考え方が存在するわけで……。それでも、大雑把な概要としてはそんなに間違ってない、はず。
 参考文献としては、次の3冊あたり。どれも分かりやすくて面白いので、ぜひ。


自由主義の再検討 (岩波新書)

自由主義の再検討 (岩波新書)

追跡・アメリカの思想家たち (新潮選書)

追跡・アメリカの思想家たち (新潮選書)

小説・倫理学講義 (講談社現代新書)

小説・倫理学講義 (講談社現代新書)

*1:もっとも、「健全な維持」とは何なのか、誰がそれを決めるのか、それが難しいんだけれども。むしろそこからが、コミュニタリアニズムの本番というか。「共通善」と呼ばれるものに対して、模索していく。