正義と微笑

numb_86のブログ

擬態

 人間は年をとると視野が狭くなってしまうと、よく言われる。確かにそれはあるかもしれない。自分の人生における「過去」の割合が増えてきて、これまでの経験に縛られてしまう。それにそぐわないような新しい視点を、受け入れられない。
 じゃあ、若いほうが、子供のほうが視野が広いのかといえば、そうでもないだろう。生きている世界が狭いし、経験も不足している。単純で一面的な見方しか出来ない。
 視野の広さは、何によってもたらされるのだろう。


 引き出しの多さ、という言葉がある。自分のなかに、いろんな要素、いろんなジャンルを持っていて、必要に応じて、引き出せる。そういう人のこと。特定の分野に偏らず、状況に応じていろんな側面を器用に出し入れできるような人。
 視野が広い人ってのは、自分のなかにいろんな引き出しを持っている人でもあると、俺は思う。


 じゃあ、引き出しってなんだ。どうやってつくる。
 擬態。つまりコピーではないかと、俺は思っている。誰かをコピーする。誰かの振る舞い、行動様式、思考、そういったものを、自分のなかに取り込む。引き出しが多いってのはつまり、自分のなかにいろんな人が住んでるってことじゃないのか?
 もちろん、コピーする対象は、人だけではないだろう。本や映画ってこともある。でも、人のほうがやりやすい。本や映画は、そのままではコピーできず、「人間用」のフォーマットに変換しなければならない。そもそも、本や映画は、少なからずフィクションだ。だけど人は、紛れも無いリアルである。


 コピーや擬態って言葉がピンと来ないのなら、模倣って言葉に言い換えればいい。要は、誰かの真似をするってことだ。
 俺もずいぶん、人の真似をしながら生きてきた。


 サラリーマン時代は、同僚をよく真似した。業務内容そのものもだけど、お客さんとの接し方や電話でのやり取りを、よく模倣した。万が一仕事が上手く行かなかったときに自分に火の粉がかからないよう、保険をかけておいたり、明らかな無理難題のときは、クレーム沙汰にならないように予め地ならししておいたり。誰に言われるわけでもなく、リアルな立ち回りや言い回しを、上司や先輩の姿を見ながら自然と自分のものにしていった。
 そういえば、一人、タチの悪い債務者がいて、担当者として電話でかなりやりあったことがある。激昂し、それでいてデタラメな嘘ばかり並べて騒ぐ相手に対し、冷静に、それでいて言いくるめられないように必要に応じて反論し、相手の矛盾点を突き、何とかその場を切り抜けた。
 もともとの俺は、そんなことが出来る人間ではなかった。もとの俺だったら、こちらには非がないのにすぐに謝ってしまっていただろう。上司や先輩たちの言動や気構えをコピーし蓄積しておいたものが、あの瞬間に発揮されたのだろう。


 人と関わっていくためのスキル、最低限の社交性、そういったものも、コピーによって習得していった。ネットや本で情報を得ることも可能ではあったが、どうしても、単なる「情報」の域を超えるものではなかった。実際に俺の周囲にいた人たちの、様々な立ち振舞い。それこそが、一番の教材だった。
 最も貪欲に吸収していたのは、大学時代だろうか。見よう見まねで、ひたすら模倣した。もともとの俺は、引きこもり時代、一人で留守番しているときに来てしまった宅配便を受け取ることにすら、それにすら難儀するような、そんな男ではあったが、周囲の人間を模倣し擬態することで、何とか乗り切ってきた。


 では、これまで何度か出てきた「もともとの俺」とは、一体何なのだろう。
 確かに、タチの悪い相手と電話でやり合えるのも、人とコミュニケーション取れるのも、本来の俺とは違う気がする。俺は、そんな人間ではなかった。臆病で、モゾモゾしていて、言いたいことも言えないような、そんな人間だったはずだ。
 じゃあ、幼少期の俺が、「本来の、もともとの俺」なのか?
 それも違うように思う。
 ただ単に世界が狭かったり、適応の仕方が歪であっただけで、子供の頃の俺も、周囲のものを取り込み、それを模倣しながら生きていた。ような気がする。むしろ、その場その場で、何を求められているか必死に考え、周囲の顔色を窺いながら波風立てずに生きていた幼少期こそ、「擬態」という言葉がよく似合う。


 この世に生まれ落ちたその瞬間、そのときは確かに、真っ白だったのかもしれない。純粋な、俺自身だったのかもしれない。
 だが物心つく頃には既に、周囲の影響を受けている。主に両親や家庭の影響を受け、その価値観や行動を自分のなかに取り込んで、その場に擬態している。


 では、個性なんてものは、存在しないのか?俺という人間は全て、コピーの寄せ集め・組み合わせに過ぎず、オリジナリティなんて、どこにもないのか?
 もちろん、そんなことはない。
 そもそも、完璧なコピー、完璧な模倣など、不可能なのだ。細部に至るまで精密にコピーすることなど出来ないし、コピーしようとする際、どうしたって、自分なりの解釈がそこに入り込む。適性っていう問題もある。実際、憧れる人や理想とする人はいるが、その人と同じように振る舞えるかといえば、不可能だ。もっと擬態レベルを上昇させていけば、いずれコピーできる日が来るのかもしれない。だが今の俺には、不可能だ。


 他人の特徴をひたすらコピーしていっても、節操なく猿真似を繰り返していても、貪欲に吸収していっても、必ず、自分なりの色を帯びてしまう。そして結局は、その時の自分に適したものしか、定着しない。
 食べ物の消化に似ている、かもしれない。食べたものは、すべてが自分の血肉になるわけではない。消化しても、身体に吸収されるのは一部だけ。残りは、不要なものとして、排泄される。


 ずいぶんと人の真似をしながら、生きてきた。それでも、自分のなかに残ったものと、そうでないものとがある。そして残ったものも、自分なりの形でしか、発露できない。意識しなくたって、必然的にそうなる。それが個性だと思う。どんなに擬態や模倣を繰り返しても、必ず、オリジナリティは生まれる。
 それでいて、自分のなかには依然として、かつてコピーした人たち、その残像が、住み着いている。今の俺にはまだ難しいのだが、そういう、「自分の中に住んでいる他人」を自由に引き出せること、それこそが、視野の広さってやつなのではないだろうか。
 女の子のことで困ったら、かつて間近で見たイケメンくんやヤリチンくんを記憶から呼び出し、彼らならどう対処しただろう、どう振舞っただろうと考える。場がぎこちない空気で満たされ、自分自身も緊張してきてしまったら、気さくで、いつも盛り上げてくれたあの人ならどうしただろうと、考える。人間の醜さや汚さに絶望し捨て鉢になってしまったら、報われないと知りながら善意の行動を取り続けたあの人のことを、思い出してみる。そして、必要なら、自分なりの形で彼らの真似をする。
 そうやって自由自在に「自分のなかの他人」を出し入れできること。それが、視野の広さであり、引き出しの多さであり、人間の幅の広さ、ってやつなんだと思う。