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正義と微笑

numb_86のブログ

信じるものは、救われる

 約半年ぶりに、『衣服哲学』非公式botを更新した。


 この本は、その名の通り哲学書であり、宗教書ではない。だけど、著者であるトマス・カーライルが敬虔なクリスチャンであるため、キリスト教的な色彩を強く帯びている。


 何で、半年も放置していたbotを急に更新したのか。
 いろいろあってアンニュイな気分になっており、ツイッターのタイムラインをぼんやり眺めていたら、ふと、自分のつくったこのbotのツイートが目に入った。「光あれ」とか、そんなことを言っていた。
 それで、なんとなく、久しぶりに『衣服哲学』を開き、文字に起こして、botを更新した。


 自分は何をしたいのか、どんな風に生きたいのか。何となくだが、見えてきた。
 俺は、自分で自分の人生をハンドリングしていたいようだ。自分で考え、自分で決めて、自分でやりたい。意味を見出せないことはやりたくないし、出来ない。
 だけど、全てを思い通りに動かせるわけではない。俺が今を楽しみ、将来に夢を描こうとも、過去は追ってくる。どこまでも追跡してくる。それに、与えられた環境は、どうしようもない。努力で変えられるものばかりではない。


 自分の、人間の、限界を知る。
 人間は無力で、無知で、運命という大きな流れには逆らえない。全てを思い通りに、って訳にはいかない。
 そんなとき、人間は、願ったり、祈ったりする。導きが、善が、正義があるのだと、信じたくなる。主はどこかにいて、誠実に努力する人間を最後には救ってくださるはずだと、信じたくなる。真面目にやってれば最後にはきっと上手くいく、世の中はそういう風に出来ているはずだと、信じたくなる。


 俺は、神様を信じているのだろうか?分からない。少なくとも、信じ切れてはいない。
 多くの日本人同様、「科学」だの「合理性」だのに脳を毒されているから、純朴な信仰は、もう抱けないだろう。無垢な信仰心は、今後も持ち得ないと思う。


 だけど俺は、神とか仏様とか、とにかくそういうものを、信じたいと思う。いつか打ち砕かれるかもしれないが、今は、信じていたい。
 信じることで、強くなれるから。


 信じる者は救われる、っていう言葉がある。
 でもそれは、「信じる」という行動を取れば、「救われる」という結果や見返りを得られる、という意味ではない。俺はそう思う。
 結果や見返りを求めている時点で、信仰とはかけ離れている。打算的に、利益を求めて信じることは、本当に「信じている」と言えるのか?それに、「信じる→救われる」という形で、論理や合理性を求めている時点で、近代主義に毒されてる。
 これは素人である俺の勝手な解釈だが、信じれば、その時点でもう、救われているのだ。信じることがそのまま、救われることでもある。


 信じることで、頑張れるのだ。神はいる、救いはある、そう信じているから、投げ出さず、前に進んでいける。理不尽な、自分の力ではどうにもならないような運命に飲み込まれてしまっても、腐ることなく、生きていける。いつか報われるはずだし、この苦境にも意味があるのだと、信じているから。
 この世には神も仏もいないのだとしたら、やってられないよ。不運に見舞われたら、きっと人生を投げ出してしまうよ。
 俺は「何か」を信じていて、信じているからこそ、頑張れる。
 冒頭に書いたようにいろいろあった訳だが、その「何か」を信じることで、だいぶ救われたよ。

美しい子供よ、眠り続けるがよい、君の長い苦難の旅が迫ってきているからだ。しばらくすれば、君ももはや眠っておらずに、君の夢自体が戦いのまねごとになるだろう。

トマス・カーライル『衣服哲学』山口書店 p108

雑草のようにもつれた悪の中にあっても、善はどんなことがあろうと破壊されることなく成長し増殖する。

同書 p117