正義と微笑

numb_86のブログ

自由を侵すもの、自由を守るもの

 先週の金曜日まで書いていた、ゆとり全共闘の記事。それの第4回に書いたのだが、我々を守るはずの警察や法律は、時に牙を向き、我々に襲い掛かってくることがある。
 社会を維持するため、警察や権力は必要不可欠なものである。社会の秩序を維持するため、権力は、強大な力を持っていなければならない。権力が力を失ってしまえば、秩序は崩壊し、無法地帯が生まれてしまうだろう。権力は、力を持っていなければならない。
 だがそれゆえに、危険性をも孕んでいる。強大な力を持っているがゆえに、その気になればいくらでも、個人を弾圧できる。無知蒙昧なジジババが訳の分からない法律をつくったり、脳筋な感じのクソ警官が暴れ始めたりしたら、我々にはどうしようもない。
 だからこそ、権力を抑え込み、適切に運用していくための工夫が、重要になる。現代社会には、権力の横暴・暴走を防ぐための様々な仕組みが、施されている。


 具体的な方法は様々だと思うが、権力に頼らない自生的な秩序をつくりあげるのも、有効な手段だと思う。安易に国家権力に頼らず、自分たちで社会を運営していく。
 自分が所属するコミュニティで何か問題が発生した際、警察の手を借りず、自分たちの力で問題を解決する。何でも法律で決めてもらうのではなく、自分たちで話し合い、自分たちでルールを決める。自分たちのなかで通用している不文律や慣習、マナーを、大切にする。
 これもゆとり全共闘の記事で紹介したのだが、京都大学吉田寮食堂などは、その好例だと思っている。積み重ねてきた歴史を基盤に、学生たちが、自分たちの力で運営している。
 京都大学新聞社/Kyoto University Press » 〈学生自主管理空間のいま〉 VOL.2 吉田寮食堂編(2009.12.16)


 私が共同体やコミュニティを重視する理由の一つは、それが、個人を権力から守るための緩衝材になると考えているからだ。個人と権力が直接つながっている場合、個人は、絶えず圧政や弾圧の危険に晒されている。だが、個人の周りを共同体が包み、「個人−様々なコミュニティ−権力」という図式になっていれば、危険はかなり軽減されるように思う。
 自分たちで社会を運営し、上手く管理し、自生的な秩序が発生していれば、権力や警察に介入してもらう必要性は薄れる。介入を拒む口実にもなる。権力の力に頼ること無く、自分たちの力で上手く秩序を保っているのだから。暴走する権力に抵抗する際も、一人で立ち向かうより、団結してコミュニティとして行動したほうが、上手くいきやすいだろう。


 しかし、である。そう上手くはいかない。個人を弾圧から守ってくれるはずの共同体が、個人を抑圧してしまう。そういうケースも、往々にしてある。国家権力による弾圧ではなく、共同体による抑圧。


 痛いニュース(ノ∀`) : 【秋田】 上小阿仁村の公募医師がイジメに耐えかね辞意 3人連続1年で - ライブドアブログ


 もはやネットではお馴染みの、秋田県上小阿仁村。毎年医師が逃げ出すこの村は、地域社会が持つ暗黒面の象徴のような存在だ。
 ここまで極端なものは稀かもしれないが、濃密な共同体にはどうしても、煩わしさや窮屈さが伴う。


 「法律が軽罪人を罰するのは、わずかに数ヶ月かあるいは数ヵ年にすぎない。けれども道徳はそのうえにさらにその人の生涯を呪う」。大正期に活躍した、日本の代表的なアナーキストである大杉栄の言葉である。共同体による抑圧は、国家権力の行うそれよりもさらに、凶悪だったりする。


 世間を騒がしているイジメ問題も、閉鎖的で流動性の低い共同体が生み出した病理、という側面を持っている。地域社会も陰湿だが、学校のクラスというのもまた、たまらなく窮屈だったりする。そこにはやはり権威があり、序列があり、暗黙のルールがあり、相互監視がある。イジメが生まれる土壌は、これ以上ないほどに整っている。


 地域社会などの共同体がもつ、陰湿さ。抑圧。そこから人々を救い出すために存在するのが、「法治」という考え方だ。全ての人間は法律の下に平等であり、どのような人間であれ、等しく扱われなければならない。理不尽なしきたりや、共同体による序列や相互監視によってではなく、平等で公正な法律によって、社会を運営する。そして法律に実効性を持たせるために、警察が存在する。


 相次ぐイジメ問題に対しても、警察が積極的に対処しろ、警察はもっと学校に介入していくべきだとの意見が、挙がっている。
 イジメ問題だけではない。何か社会問題が発生する度に、厳罰に処せ、犯罪として扱え、警察はもっと仕事しろ、こんな奴らは逮捕しろ、といった声が必ず出てくる。
 こうして、安易に警察や権力に頼る風潮が生まれる。自分たちの手で問題を解決するのではなく、さっさと警察に投げて、手っ取り早い処理を望む。
 そしてそれは容易に、警察の職権濫用、権力の横暴に、転化しうる。
 権力による過度な介入、自由や権利の侵害。
 ではどうすれば、権力の暴走を抑止できるのか。
 話は冒頭に戻る。


 結局、この繰り返しなのだ。正解はない。国家権力も、自分たちで運営する共同体も、どちらも我々の自由や権利を守ってくれる。それでいてどちらも、我々の自由や権利を奪う可能性を秘めている。どちらが正解、ということではない。楽な道もない。我々全員が、たゆまぬ努力によってコントロールしていくしか、方法はない。マニュアルなんてない。過去の事例は参考にはなるが、結局は、その都度その都度、全力で考え抜いて決断していくしかない。
 国家権力と共同体。それぞれ、長所と短所がある。光と影がある。当たり前の話だ。完璧なものなど存在しない。そしてその当たり前のことを忘れた人間が増えていけばいくほど、影は濃くなり、我々を蝕んでいくのだろう。