正義と微笑

numb_86のブログ

アダム・スミスと生活保護

 「新仕分け」で生活保護基準引き下げへ保護費削減賛成派が知らない日本社会に及ぼす悪影響 ――政策ウォッチ編・第3回|生活保護のリアル みわよしこ|ダイヤモンド・オンライン
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012112002000111.html


 民主党にしろ自民党にしろ、生活保護を削減・縮小する方向で動いており、それが世の中の流れのようです。
 決して少なくない人がその方向性を支持しているわけですが、恐らく、深く考えた末の結論ではないでしょう。一番上のリンク先にあるように、「ノリや気分で支持している」というのが実情だと思われます。あるいは、「俺がつらい思いをして働いているのに、制度にタダ乗りしているなんて許せない」という、無知や偏見に基づいた嫉妬でしょうか。いずれにせよ、深い考えはないのでしょう。
 ただ、少なくともおおっぴらには、「嫉妬で許せないから、生活保護費を引き下げろ!」と主張するわけにはいきません。一応、彼らにも尤もらしい理屈はあるわけです。


 そしてその際には、どうやら、自由主義的な考え方というか、競争や自助を肯定するような思想が、悪用されてしまっているようです。事実、生活保護に厳しい人たちは、「自助努力」とか、「額に汗した人が報われる社会」といったキーワードを好む傾向があるように思われます。いわゆる、「小さな政府」の考え方ですね。
 感覚値ですが、生活保護を叩いている人たちと、「規制緩和」や「自由競争」を主張している人たちは、かなりの割合で重複するのではないでしょうか。


 そこで、これから何回かに分けて、「小さな政府」の基本的な考え方やその変遷について、書いていこうと思います。


 多くの人にとって、興味のない内容だと思います。しかし、政策の背景にある基本的な考え方を知ることは、とても意味のあることです。
 具体的な課題について掘り下げて学んでいくことも有意義ではありますが、時間が有限である以上、物事を見る際の基本的な考え方や見方を磨いたほうが、効率的です。土台となる考え方がしっかりしていれば、マスコミのチープな報道にも振り回されなくなります。
 しかも我々は、選挙において、政策ではなく候補者や政党に投票するのです。政治や経済に対する「自分なりの視座」を養うことは、不可欠とすら言えるでしょう。
 確かに面倒ではあるのですが、仮にも民主主義国を名乗るのであれば、政治について考えることは権利である以上に義務だと思います。それが嫌ならば、現行の民主主義以外のシステムを模索したほうがいいでしょう*1。あるいは、全てを他者に丸投げし、その代わり文句も一切言わないようにするか。


***


 自由主義的な思想の基盤をつくったのは、有名な経済学者であるアダム・スミスです。もちろん、それ以前にも自由主義的な考え方はありましたが、最初に理論化・体系化したのはやはりアダム・スミスでしょう。彼の主著である『国富論』は、経済学の不朽の古典と言えます。


 アダム・スミスの最大の特徴は、人間の利己心(我欲)を、ポジティブなものと捉えたことです。
 利己心は、否定されるべきものではなく、むしろそれこそが、社会を成り立たせている。それがスミスの主張です。


 スミスは何も、人間は利己的な存在であり博愛精神などないんだと主張しているわけでは、ありません。人間は、利己心だけでなく、利他的な心や、他者のために何かをしたいといった感情も、当然持っています。ただ、それが適応されるのは家族や友人ぐらいまでで、社会全体にまで博愛精神を持つのは、なかなか難しいのが現実です。見ず知らずの他人のために奉仕できる人間は、そう多くありません。
 しかし、にも関わらず、社会はこうして成り立っています。現に私は、多くの人の助けによって、今のこの生活を成り立たせています。


 人間は、一人では生きていけません。私が食べている食料も、着ている衣服も、今こうして使っているパソコンも、自分以外の誰かがつくってくれたものです。これらを全て自分で用意するのは、不可能です。自分以外の誰かがモノやサービスを提供してくれるからこそ、私たちは生きられるのです。
 では、これらのモノは、博愛精神によって提供されているのでしょうか。世のため人のために、サービスを提供しているのでしょうか。
 もちろん、違います。そうすることで彼ら(生産者)にメリットがあるから、そうしているのです。
 他の人よりも多くのものを提供すれば、より質の高いものを提供すれば、その分だけ利益を得られる。だからこそ彼らは、頑張るのです。
 つまり、彼らの博愛精神や隣人愛に期待するのではなく、彼らの利己心を刺激することで、「頑張れば貴方にとってメリットがありますよ」と訴えることで、彼らにモノやサービスを提供させているのです。


 そうして利益を得た彼らは、そのカネで、自分の欲しい物を買おうとします。そして、自分が欲しいものを提供してくれる人には、その対価としてカネを支払います。そこで新たにカネを得た人もまた、そのカネを使って自分の欲しいものを購入するでしょう。もしくは、もっと多くのカネを得るため、より一層の生産や商売に励むのかもしれません。


 これが繰り返され、循環することで、社会にはモノやサービスが溢れることになります。社会に必要な物は十分に提供され、社会はどんどん豊かになっていきます。
 一人一人は自分の利益のことしか考えていないにも関わらず、です。各人が自己利益のために生産や商売、労働に励むことが、結果的に、社会を豊かにするわけです。
 スミスが、社会を成り立たせているのは博愛精神ではなく利己心だと考えたのは、このためです。
 そしてこれが、有名な「見えざる手」です。
 一人一人は自己利益を追求しているだけなのに、まるで見えざる手に導かれているかのように社会が発展していく、という訳ですね。


 そしてさらに「競争」が、各人による経済活動を調整してくれます。
 人間の利己心にはキリがありませんが、商品にあまりにも高い価格をつけてしまえば、消費者は他の買い手のところに移ってしまい、かえって損をしてしまうでしょう。しかし、他の人は売っていないようなもの、自分にしか提供できないようなものであれば、そして消費者が強く欲しがるようなものであれば、高い価格であっても売れるはずです。
 こうして、価格は適切にバランスされます。そして、誰もが大きな利益を得たいわけですから、需要の多い商品を提供すべく努力するようになり、必要な物や便利な物が人々(社会)に提供されるのです。


 しかし、利己心による経済活動や競争を成り立たせるためには、ひとつ条件があります。
 それは、公平なルールです。いくら自由な競争が保障されていても、そこにルールがなければ、社会は成り立ちません。
 大きな利益を得るために、相手を騙したり、相手の弱みに付け込むような取引をしたりするような人が増えれば、社会は崩壊に向かうでしょう。お互いを信頼できず疑心暗鬼の状態では、取引はまともに成立しません。多くの生産能力や富を持つ「強者」が、自分に有利な取引条件を周囲に強要するようになれば、「自由な競争」という理念は台無しになってしまいます。
 そのためスミスは、自由競争だけでなく、何らかの形でそれを制限・調整することも重要だと、考えました。スミスの主張する利己心が「啓蒙された利己心」と呼ばれる所以です。
 もう一つの主著である『道徳感情論』では、「同感」や「公平な観察者」といった概念を用いて、社会の秩序について論じています。


 法の支配下における自由、そこで個人が自由に自己利益を追求していくことで、社会は成り立つ。
 これが、アダム・スミスの基本的な考え方です。
 そのためスミスは、政府による経済への介入や、計画経済といったものに、否定的でした。
 社会はあまりにも複雑であり、その法則は、人間に理解できるものではない。ましてやそれをコントロールするなど、不可能である。人間は、全知全能とは程遠い存在なのだ。それがスミスの基本的な認識です。
 だからこそ、利己心を、社会の基礎として考えたのです。人間は全知全能ではありませんが、自分の身の回りのことや、自分の利害のことなら、ある程度は分かりますし、合理的に判断できます。
 あまりにも複雑で人間の理解を超えた存在である「社会」を成立させていくためには、利己心によるしかないと考えたのです。


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 アダム・スミスの思想については、概ねこんな感じです。
 生活保護に否定的な人たちは、「自由な競争こそが社会を発展させる」や「政府の介入は少ないほうがいい」といった部分をつまみ食いして、変な影響を受けてしまっているように見受けられます。「見えざる手」を無邪気に信奉しているというか。


 アダム・スミスで花開いた経済的自由主義の思想ですが、その後、これに異議を唱える人や、修正を加えようとする人たちが現れます。マルクスケインズが、それぞれ有名ですね。
 さらに時代が下ると、ハイエクフリードマンといった、「自由」を主張する人たちの勢いが再び増していきます。
 ここらへんの話は、次回以降に。

*1:そういうアプローチも、それはそれでアリでしょう。実は私も、政治に深い関心のない人まで無理矢理に政治参加させようとする今のシステムは、かなり無理があるし、非現実的だと思っています。