正義と微笑

numb_86のブログ

暇人の価値

 北海路さんののんびり格闘日記: 「ポストモラトリアム時代の若者たち」書評


 上記の書評を、興味深く読んだ。
 人格を深める期間としてのモラトリアムが失われ、「無為の時間」を過ごすことが許されなくなった。常に、「経済的価値があるか」が指標となり、「有意義な時間の使い方」が強制される。そのような社会では、アイデンティティを確立することは困難であり、現代の若者は危機的状況に置かれている。そういった内容。
 この論旨に、すごく共感した。


 そして、そのような状況になっているのは、思春期の若者だけではない。
 「経済的価値」という尺度は社会を覆い尽くし、誰もが、それに追い立てられて生きている。どこに行っても、「効率化」だの「自己啓発」だの、そんなのばかりだ。「無為」や「遊び」は、決して許さない。貧困などの苦境に陥った者に対しても、「お前は自己啓発を怠ったのだ、自己責任だ」と嗤う。
 終わりのない自己啓発ゲーム、スキルアップゲームをやり続けなければ生きられず、一度失敗してしまえば、即座に「努力不足」の烙印を押されて落伍者扱い。


 いやまったく、バカバカしい限りで。
 真の意味での豊かさは、「無為」や「遊び」によって生まれる。
 「効率化」によってガチガチに縛られた社会は、かえって効率が悪いのだ。「非効率を一切許さない」というその姿勢がもう、非効率的。
 それに、「効率化」が徹底された社会では、画一化が進む。「効率的だ」と判断された手法に収斂されていき、それ以外の手法は廃棄されるのだから。多様性が損なわれるし、斬新なものも生まれない。そのため、「無為や遊びを否定し、効率化された社会」は、もろくて、衰弱した社会でもある。


 そしてそれは、個人においても言える。
 価値観は人それぞれではあるが、「無為」のある人生こそが豊かな人生だと、俺は思う。
 単純に、ゆとりがあるほうがいいに決まってる。それに、無為に過ごす時間こそが、創造性の土壌だとも思う。
 まったく効率的ではなく、無為に過ごしてばかりいる、経済的には低い価値しか持たない雑魚。そういう暇人、フラフラしている放浪者こそが、新しい価値を生み出すのだと思っている。


 俺もずいぶんと、無為に過ごしてきた。
 会社を辞めてから10ヶ月が経ったが、それはそれは、無為な日々であった。
 だが、そのおかげで、いろんな人と知り合えたし、ノマドライターになって多くの人に記事を読んでもらえたし、Amazon欲しいものリストでモノを送ってもらえたりした。以前から関心があった若者支援のボランティアをやってみたり、各種の集まりに顔を出してみたり。いろんな縁が重なって、新聞社の記者さんと二人で食事をしたり、ウェブ制作の仕事を請け負ったり。いろいろあった。
 真面目に、効率的に、ハロワ通いや資格取得に勤しんでいたら、こうはいかなかっただろう。社会的には「無為」と判断されるような過ごし方をした、そのおかげだ。


 成果が期待できるような活動、すぐにカネに変換できるような活動、そういうものが効率的だとされるのが、現代日本の風潮だ。景気が悪いことも影響しているのだろう。誰もが、転落しないように、負け組にならないようにと、せっせと自己啓発している。
 だが、逆説的だが、不安定な時代にこそ、「無為」が求められると思う。もう、正解のない時代になってしまったのだから。
 答えが明確であれば、そこに向かって「効率的な努力」をしていけばいい。だが、もう違うのだ。いい大学を出たって、真面目に求職活動をしたって、どうなるか分からない。
 例えば俺の場合、真面目に求職活動をしていれば、積極的にリクナビNEXTをチェックしていれば、再就職に成功していたのだろうか。今ごろ、労基法を遵守する会社で働きながら、充実したサラリーマン生活を送っていたのだろうか。とてもそうは思えない。


 そして、皮肉なことに、不安定な時代になればなるほど、無為に過ごす余裕は失われる。個人からも、社会からも。目先の価値ばかり追い求めるようになり、ますます、豊かさや多様さが失われる。社会は、閉塞感を増していく。


 それでも俺は、今後もっと「無為な活動」に精を出し、マッチョ思想のエリートビジネスマンや学者先生を笑い飛ばしてやりたいと思っている。
 社会に豊かさをもたらすのは、「努力しない奴は自己責任」とのたまう学者先生ではなく、フラフラと好きなように動きまわる「暇人」だと信じているからだ。