正義と微笑

numb_86のブログ

「生きる意味」という病

 思春期の頃はずっと、生きる意味を探していた。
 自分は何のために生きるのか、何を指針・基準として行動すればいいのか、悩んでいた。
 それは多分、生きづらさに起因していたのだろう。
 誰にも心を開けず、学校が苦痛だった。高校もほとんど行かないまま中退し、ひきこもった。外に出れなくなった。
 苦しい日々だった。灰色の思春期だった。何もしない、虚無の青春。
 だからこそ、生きる意味を求めたのだろう。それがあれば、楽になれるはずだから。クソみたいな人生でも、自分なりに意義を見い出せれば、生きている。
 生きづらさを克服したくて、人生に意味を求めた。



 政治経済や天下国家に関心を持ったのも、そのためかもしれない。
 同世代に比べて俺は、政治に対する関心が強かった。
 政治に関心を持つことで、貧弱な自我を補強しようとしたのだろう。「俺は社会のことを考えているんだ、社会のために何かしようとしているんだ」、そういう自意識を持つことで、自分を立派な人間だと思い込もうとしたのではないだろうか。
 社会のために、日本のために、何かをする。それを、自分の生きる意味にしようとした。それはとても、立派なことのはずだから。


 その後、少しずつ社会に適応していくことで、「生きる意味」を自問自答する機会は減っていった。
 「俺は何のために生きるんだろう」という抽象的な悩みから、人間関係や社会生活に関する具体的な悩みへと、関心が移っていった。


 だけど結局、「生きる意味」という呪縛からは、逃れられなかったのだ。サラリーマンになることで再び、「俺は何のために生きているんだろう」と悩むようになった。日々の生活や目の前の仕事に意味を見出せず、とにかく苦痛だった。
 そういった苦しみについて書いたのが、これ。もう、2年も前の記事だ。
 認識によって世界を変える。 - 正義と微笑
 この記事は去年書いたと記憶していたんだけど、2年前に書いていたらしい。俺は何も、変わっていない。ずっと俺は、一緒なんだ。「生きる意味」を探してしまうのは、決して一過性の現象ではなく、俺の本質なんだ。
 この記事にもあるように、別に気取ってるわけじゃない。本当に切実に、意味を欲してしまうんだ。意味など求めずに器用に生きている人たちを、ちょっと羨ましくすら思う。
 実際、生活や仕事に意味を見出だせない日々が辛すぎて、心をすり減らしていき、最終的には心を壊して会社を辞めることになった。


 「生きる意味」という病。
 そういったものに、俺はとりつかれている。それがなければ、満足に生きられない。多分ずっと、そうなんだろう。
 「生きる意味」という表現が大袈裟なら、「好きなもの」「共感できるもの」と言い換えてもいい。それがないと、生きられない。


 好きなもの。ニート福祉、社会起業、思想、堅牢なもの……。そういったものと親和性が高い。
 苦手なもの。ビジネス、市場、経済成長、自己啓発、軽薄なもの……。そういったものとは、反りが合わない。


 でもほとんどの人は、上手く割り切っている。折り合いをつけている。
 意味を見出せないもの、好きじゃないもの、共感できないもの、そういったものでも、ちゃんとやってる。大人として、社会人として、器用に折り合いをつけている。


 それが、生きるということなんだろう。
 やりたくないことをやる。美意識に反することをやる。間違っていると思うことを、敢えてやる。尊敬できない人にひたすら頭を下げ、媚を売る。こだわりなんか捨てて、「カネ」や「飯を食う」ことだけを考えて動く。
 みんなそうやって、我慢して、折り合いをつけて、生きている。


 でも俺には無理なんだ。出来ない。病気なんだよ。意味のないことや好きじゃないことなんて、出来ない。無理して続ければ、心を病む。


 こんな俺が生きていくためには、力が必要だ。力なき理想など、無意味。
 今の俺では、全然ダメなんだ。話にならない。
 生きていくためには、理想を捨てなければならない。でもそれは無理。病気だから。
 となると、理想を貫くための力を持つしかない。


 俺は自分の未来を信じてはいるけれど、このままじゃダメだ。
 俺はあまりにも無力で、自分自身のことすら救えない。
 そのことを再発見して、途方に暮れている。