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正義と微笑

numb_86のブログ

「ラーメン代稼ぎ」としてのアルバイト

 最近、ポール・グレアムのエッセイを読んでる。
 『ハッカーと画家』はだいぶ前に読了していたけど、彼の文章はやっぱり面白いし、刺激に満ちている。
 彼はもともとネット上で自分のエッセイを公開しており、『ハッカーと画家』はその一部を取りまとめたものだ。それ以外にもたくさんのエッセイがあり、誰でも無料で読める。有志による和訳も進んでいる。
 http://practical-scheme.net/wiliki/wiliki.cgi?naoya_t%3a%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%81%A8%E5%92%8C%E8%A8%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7


 そのうちの一つに、「ラーメン代稼ぎ」というものがある。
 らいおんの隠れ家 : ポール・グレアム「ラーメン代稼ぎ」 - livedoor Blog(ブログ)


 今の自分の状況とリンクする部分が多いため、いろいろと考えさせられた。


 ここでいう「ラーメン代」とは、起業家の生活費のこと。
 スタートアップ企業は、取り敢えず早いとこ、起業家の生活費分くらいの利益は得るようにしよう、そうすれば資金調達に頭を悩ますことがなくなるし、いろいろとメリットがあるよ。それが「ラーメン代稼ぎ」の考え方である。


 そしてこの考え方は、スタートアップだけではなく、個人にも応用できると思う。
 何も莫大な財産を稼ぎ出す必要はなく、最低限の生活費さえ稼げればいい。そうすれば、生活は持続可能なものになる。そして生活を持続させていければ、そのなかで、何でもやれるのだ。


 俺は起業家ではないし、それを目指すつもりもないが、「ラーメン代」を稼ぐことの重要性は痛感している。
 それが無ければ、どんなプロジェクトも、企画も、続けられない。持続可能な生活、それこそが、全てを支える土台なのだ。
 「ラーメン代」が無ければ、それを得るためにどうすればいいのか頭を悩ます羽目になる。口座の残高を心配し、どうやって生きていこうか悩み、僅かなカネを得るために労力を費やすことになる。そんなことをしている内に、本来やるべきプロジェクトは停滞し、未来のための投資は先延ばしになり、やがては人生をたたむことになる。


 ポール・グレアムはこう言っている。

ラーメン代稼ぎに達した企業は、その方法でお金を稼ぎ続ける必要はないということだ。お金さえ稼げれば何だっていい。
最も有名な例がGoogleだ。最初、GoogleはYahooのようなサイトに検索をライセンスすることでお金を稼いだ。最終的なGoogleのビジネスモデルはまったく別だったのだが、当時、検索をライセンスしたおかげで稼いだ資金は役立ったに違いない。

 「ラーメン代」を稼ぐ方法は何でもいいのであり、必ずしも「本業」で稼ぐ必要はないのだ。
 「ラーメン代稼ぎ」で得たカネで糊口をしのぎ、「本業」に投資し、そして最終的に「本業」で稼げればいい。


 俺は賃労働を毛嫌いしすぎたのかもしれない。それをすることは「負け」のように思えた。26年間耐え続けてようやく手に入れた「自分らしい生活」を、自ら手放すことのように思えた。
 だがその結果、「自分らしい生活」を成り立たせるための必要条件である「カネ」が、尽きそうになっている。
 自由を追い求めた結果、自由を失いそうな事態に陥っている。


 いま俺が「ラーメン代稼ぎ」をしようとすれば、具体的には、アルバイトをすることになるだろう。
 「賃労働をしない生活を実現するために、賃労働をする」というのは、矛盾ではない。
 バイト代で生活費をまかなって時間を稼ぎ、その間に、理想を実現するための基盤づくりに励めばいい。


 しかし、そこで何の躊躇も不安もなくアルバイトを始めるほど、俺も安易ではない。

ラーメン代稼ぎの欠点は何だろうか? おそらく最大の危険は、コンサル会社になってしまうことだ。
(中略)
月に3000ドルのコンサル会社になるのは、かなり簡単だ。それは現実には安売りする契約プログラマーだろう。だからコンサルをすると、実際には全くベンチャーではないのに、自分たちはラーメン代稼ぎのベンチャーだと言い張りたくなる危険性がある。

 ここでいう「コンサル会社」や「安売りする契約プログラマー」の具体的な意味は俺にはよく分からないが、要は、「目先の利益のために受託開発の仕事を請けていたが、いつの間にかそれが本業になってしまっていた」とか、そんな感じだろう。
 手段として始めたことが、いつの間にか目的になってしまう。


 個人の場合も、それと全く同じことが懸念される。
 目標を達成するための手段として賃労働を始めたはずなのに、それから抜け出せないまま、時が経過する。
 「僕は賃労働をしない生活を目指しているんです」と言いながら、気付けば定年までサラリーマンを続けていた。そんな未来を容易に想像できる。


 そもそも俺が賃労働に否定的なのは、それが人間から自由を奪ってしまうからだ。
 「ラーメン代」を稼ぐには、すなわち生活しているだけの資金を稼ぐためには、フルタイムで働かなければならないだろう。そんな状況で果たして、「理想を実現するための活動」を出来るだろうか? 「働くために生きています」という状況に陥りはしないか?


 答えは出ない。
 だが、答えが出ようと出まいと、生きるためにはカネが必要なのであり、取れる選択肢はそう多くはない。