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正義と微笑

numb_86のブログ

学校での思い出

 ふと思い出したことを書く。
 別に、何かを叩いたりしたいわけではないです。


 教育の在り方について、「対話型授業」や「双方向の授業」が大事みたいな話を、ちょくちょく聞く。
 それは間違っていないのだろう。暗記する能力よりも、主体性や自発性とか、発信する能力とかのほうが、生きていく上では大切だ。


 じゃあ、そういう授業を取り入れれば、発信する能力や、対話する能力が、身につくのだろうか。
 違うと思う。身につかないと思う。それどころか、マイナスの作用をもたらすだろう。
 学校において、まともな「指導」や「コーチング」は行われないからだ。


 体育の授業が嫌いだった。授業と謳うくせに、何も教えてくれないから。教師は、ただ「やれ」と命じるばかりで、何も指導してくれない。見本を見せるのが関の山。そして、運動神経のいい連中が得意気に活躍するなか、俺はひたすら、苦痛や恥を感じていた。
 音楽の授業が嫌いだった。授業と謳うくせに、何も教えてくれないから。ただ歌わせるだけ、ただ楽器を弾かせるだけ。俺はどうしても、「音感」という概念を理解できず、音痴というのが何なのかすら、よく分かっていなかった。
 ペーパーテストが好きだった。ちゃんと教えてもらえるから。テストの解き方、何がテストに出るのか、そういったことを教えてもらえる。教え方の上手い下手はあるが、ともかく、ちゃんとした「指導」がある。


 残念ながら、体育や音楽は、素質が全てだ。教育なんて行われていないからだ。そして、素質を持たない者には、苦手意識や劣等感だけが残る。本当はそんなことないかもしれないのに、「素質がないと、何やってもムダ」と思うようになる。そして何より、嫌いになってしまう。
 未就学児だった頃は、普通の子供らしく、歌を歌うことも、身体を動かすことも、嫌いじゃなかったと思う。特に、運動は嫌いじゃなかった。普通の男の子なみに。
 だけど、「学校教育」を経た結果、俺は見事に、歌を歌うことやスポーツが大嫌いになった。今も嫌いだ。


 「対話型授業」も同じことになるだろう。
 というか、俺が児童・学生だった頃から、グループワークみたいな授業はあった。各自で意見を交換したり、皆の前で発表したり。
 大嫌いだったね。
 何のコーチングもケアもなく、「みんなと議論しろ」「みんなの前で発表しろ」と言われる。出来るかよ。そりゃ、活発でコニュニケーションが得意な連中は、いいだろうよ。楽しかろう。でも俺は、苦痛だった。憂鬱だった。オドオドしながら、「早く終われ」と願いながら、やりすごしていた。
 結果、発信する能力や対話する能力は身についただろうか。身につかなかった。それどころか、グループワークやディスカッションが嫌いになった。「自分はそういうのに向いてないんだ」という、強い劣等感や嫌悪感を植え付けられた。対話する能力は、むしろ低下したように思える。
 学校嫌いや対人恐怖に拍車をかけ、最終的に高校中退に至ることになる。
 大学に入った後も、グループワークや発表形式の講義は、全力で回避した。


 これから教育現場では、「自由な議論」が押し付けられ、「自分の意見を主張すること」を強要されるのだろう。
 そして、もともと快活な連中はますます伸びやかになり、もともと内気な連中はますます閉じこもっていくのだろう。げんなりする。
 昔の俺と同じように、ドン臭くて引っ込み思案な小中学生たち。彼らには同情するし、本当に気の毒だなと思う。彼らの短所を補い、長所を伸ばしていく事こそが、教育の在るべき姿。だけどそんなことは行われず、「これからは主体性や発信力が大切」という号令のもと、それが出来ない彼らは劣等生の烙印を押され、そのまま放置されるのだろう。