読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

正義と微笑

numb_86のブログ

「いじめ」と「貧困」の違い 自由、能力、自己責任


 いじめは不可抗力。
 だが貧困はそうではない。いわゆる「自己責任」。不可抗力ではなく、努力さえすれば防げるものとして、考えられている。
 だから、「貧困は怠け」という理解になってしまう。いじめに比べて、手が差し伸べられにくい。


 自己責任論を唱える人たちは、「努力さえすれば何でも叶う」という世界観を持っている。全ての人間は、あらゆる外的要因をはねのけて貧困を克服できる能力を持っている、そう仮定している。途上国の人や障害者ならともかく、日本に住んでいる健常者なら貧困なんて問題ではないと考えている、無意識のうちに。


 この、「努力さえすれば解決できる」を適用出来るかで、判断が変わる。


 差別の基準も、「自己責任かどうか」。
 女性や障害者や外国人は、差別してはいけない。それは生まれ持ったものや不可抗力によるものであり、自己責任ではないから。
 でも、バカや貧乏人や低学歴は、差別してもいい。そうなっているのは、自己責任だから。
 顔の悪い人を嫌悪してはいけない。それは持って生まれたものであり、自己責任ではないのだから。
 でも、性格が悪い人は、思いっきり嫌悪し、蔑んでもいい。それは努力次第で改善可能なことなのだから。


 この、自己責任の原則は、私たちの思考に強く染み付いている。一部の「自己責任論者」だけの話ではない。


 努力をせず、全て人のせいにしてケチをつけてばかりいる人間は、軽蔑に値する。それは自然な感情だし、当然のことだ。自己責任というものを一切否定するのは、違う気がする。全て自業自得であり、因果応報なのではないか。そう思えてならないような事例は、確かに存在する。
 政治においても、あらゆる人物に対してあらゆる救済や配慮を施すのは、不可能だし、すべきだとも思わない。


 とはいえ、実際には、線引は難しい。何が自己責任で、何が自己責任ではないのか。
 しかもそれは、グラデーションではなく、まだらであり、そもそも線引できるようなものではない。


 既に述べた「自由」と「能力」が、一つの基準になるかもしれない。困難や課題を克服するだけの能力があり、それを発揮する自由も得ている。にも関わらず、本人が怠けているから、自分を律することが出来ないから、いつまでも困難が解決されない。このようなケースなら、「自己責任」と言えるかもしれない。
 とはいえ、その判断も簡単ではない。一見すると能力も自由もあるにように見えても、実はそれを阻害する要因を抱えているのかもしれない。
 粘り強く努力できるか、物事を投げ出さないか、挫折を乗り越えられるか。これは人生においてとても重要な要素だけど、これらはほとんど気質といっていい。意図的に矯正するのは困難だ。生きていくうえで「不利」な気質を抱えてしまった場合、その人が貧困に苦しむのは、自己責任なんだろうか。違うのだろうか。
 自己肯定感や対人能力も重要な要素だが、これもまた、家庭環境や学生時代の運によって左右される。これらを持てないまま社会に出てしまった場合、相当苦労することになると思う。結果的に、低所得や不安定な雇用に苦しむかもしれない。その場合は、どうなのだろうか。自己責任なのだろうか。


 生活保護や弱者救済に対して異様に敵愾心を持っている人。
 親が悪い社会が悪いと言いながら、親の脛をかじりながら毎日怠惰に過ごしている人。
 外国人差別は許さないと息巻きながら、「外国人を差別するような連中には、基本的な人権すら認めない!」と叫ぶ人。
 こういうのを見ていると、いろいろと考える。