正義と微笑

numb_86のブログ

阿部彩『弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂』

 日本における貧困・格差問題の入門書。
 「社会的包摂」という概念を軸に、現代日本の貧困や格差について描いている。

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)


 2012年に読んだものの再読。


 第1章でまず、各種の統計や調査を紹介して、日本でも「貧困」が広がっていることを描いている。
 個人的には、借金と「所得」の関係についての記述に、興味をもった。本書で指摘されているが、各種公的制度の免除や補助はあくまでも「所得」が基準になっている。国民年金の免除も、求職者支援制度の給付金も、あくまでも「所得」が基準だった気がする。借金まみれで家計が破綻していても、所得自体が一定の水準を越えてしまっていれば、上記のような優遇を受けることは出来ない。
 個々人の借金の状況を把握して考慮することは難しいけど、信用情報機関の整備などが整っている日本なら、もう少し上手くやれるのではないだろうか。
 本書ではあまり踏み込まれていなかったが、貧困政策と借金というテーマについて、もう少し調べてみようかと思った。


 第2章は、貧困をどう定義するかという内容。
 社会として、国として貧困問題に取り組む以上、何を貧困と見なすのかを定義し、社会的な合意を取り付けないといけない。
 そのための方法論や概念について、紹介されている。相対的貧困率など。
 そして、調査の結果、日本においては、貧困の基準が相当に厳しいという。他の先進国では「必需品」と見なされているものが、日本においては「贅沢品」と見なされている。
 いくつか理由が考えられるが、有力なものとして「清貧の思想」があるのではないかと著者は指摘している。
 確かに、経済社会や物質文明に対して憎悪を持っている人は、それなりにいる気がする。倫理や伝統、精神性を重視する右派の人たちがそうなってしまうのは分かるが、いわゆる左派、リベラルな人まで清貧の思想に傾倒しているのは、興味深い。
 リベラルな人たちは貧困に関心を持ちやすい。右派に比べると、貧困対策や弱者救済に好意的だ。にもかかわらず、彼らは同時に、「脱成長」や「物質的ではない豊かさ」という議論を持ちだして、カネやモノの重要性を軽視してしまう。
 日本人は、思想の左右に関係なく、「カネがなくても幸せになれるはずだ」という根性論を信奉しているのかもしれない。


 ここまでは、物質的な話。第3章からは、本書の主題でもある社会的排除について論じている。
 著者自身がボランティアとして関わっていたホームレスの事例を交えながら、「つながり」「役割」「居場所」の重要性を描いている。これらは、「望ましいもの」ではなく「必要なもの」であること、そしてそれが、不足してしまっていること。ホームレスのような「極端なケース」だけでなく、多くの人が、「社会的排除」に近い状態にある。
 「つながり」も「役割」も「居場所」も、手垢がついたテーマだし、食傷気味なワードなのだが、人間が尊厳を持って生きるために不可欠なのは間違いない。
 「物質的な豊かさ」と「精神的な豊かさ」は両輪であり、どちらかがあればいいというものではない。
 話が逸れるが、ビジネスにおいても、こういう視点は重要なんだと思う。これからの経済では、単に「機能」や「利便性」を売るのではなくて、「体験」や「物語」を売るのが大切なんだとよく言われている。例えばオンラインゲームは、まさに「役割」や「居場所」を提供することで、対価を得ている。
 4Gamer.net ― 「人はなぜゲーム内アイテムにお金を払うのか」 デジタルジェネレーションが生んだ新しい経済価値について,成蹊大学の野島美保氏にあれこれ聞いてみた


 第4章では、社会的排除の在り方の一つとして、「格差社会」を取り上げている。
 社会的排除という考え方で最も重要なのは、「個々人ではなく、社会自体が問題を抱えている」という認識。社会の制度や仕組み、社会の在り様。それが、排除を生み出しているという考え方。つまり、自然発生的に「孤立」や「貧窮」が生まれてしまっているのではなく、社会という主体が人々を排除してしまっている。
 そして、そのような社会の在り様のひとつとしての、格差。
 様々なデータを紹介しながら、格差は、貧困層のみならず全ての人に悪影響を与えると論じている。紹介されているデータの妥当性や信頼性はちょっと分からなかったが、格差によって信頼感や連帯感が損なわれ、秩序も失われ、様々な悪影響が生じるという論法には、それなりに納得感がある。
 気になったのは、著者が「地域」というものに期待しているところ。これも左右問わずそうなのだが、「社会とのつながり」みたいな話をすると、やたらと「地域社会」を持ち出す例が多い。だが私は、地域を褒めそやす論調には否定的だ。地縁や血縁からの自由を目指してきた近代の歴史に逆行するし、地域社会が持つ負の側面を軽視しすぎていると思う。ただ単にノスタルジーで地域に回帰しようとしても、上手くいかないだろう。
 これを書いていて気付いたのだが、日本人は右も左も、「3丁目の夕日」が大好きなのだろう。先ほどの「カネがなくても幸せになれるはずだ」という思想や、地域を賞賛する価値観。「幻想としての昭和」に、過剰なノスタルジーを抱いているのかもしれない。
 私は、地縁や血縁からもっと自由な「社会とのつながり」を志向したい。


 第5章では、「社会的包摂政策」について考え、その中核になるものとして「ユニバーサル・デザインの社会」を提唱している。ここが、本書の肝だと思う。
 先述したように、社会的排除では、個人ではなく社会の有り様を問題とする。
 人は誰しも、何らかの「障害」や「事情」を抱えている。低所得であったり、身体的な障害を抱えていたり、気質に難を抱えていたり、学歴も職歴も無かったり、社会経験が著しく不足していたり。このような広義の「障害」を抱えた人たちは、社会でやっていくのに苦労する可能性が高い。「不利益」を被り、生きづらくなっていく。
 ここで、「障害」そのものを問題視するのではなく、「障害」がそのまま「不利益」になってしまうような社会を問題視するのが、社会的排除の考え方である。個人が抱える「事情」と、社会が内包している「障壁」。その相互作用として、「不利益」が生まれてしまう。だから、社会の側の「障壁」さえ取り除かれれば、「事情」や「障害」があっても、「不利益」にはならない。
 このような社会を、「ユニバーサル・デザインの社会」と呼ぶ。そこでは、どんな事情やハンデを抱えていても、それが「障害」とならない。全ての人が暮らしやすい社会。それこそが、社会的包摂政策が目指す社会である。


 第6章のテーマは、震災復興。
 本書の刊行が2011年ということもあり、随所で、東日本大震災について触れている。そしてこの章では、阪神淡路大震災の調査やデータを用いながら、どのような復興政策が望ましいか論じている。
 個人的にプライオリティが高くないテーマなので、あまり興味が湧かなかった。
 だが、震災は全ての人を等しく襲うわけではない、という主張は、その通りだと思った。震災前の境遇の違いによって、被災後の立ち直りの可能性は大きく変わってくる。
 社会的包摂政策は、防災という観点からも重要となってくる。平時からセーフティーネット社会保障が上手く機能していれば、災害による影響を最小限に抑えることが出来る。一時的にダメージを受けても、そこから生活を再建できる可能性が高まる。


 課題解決よりも、課題の発見や定義が重要なのだと、よく言われる。
 貧困・格差問題に取り組む際も、そもそもどんな社会を理想とし、目指していくのかが、大切だと思う。
 その意味で、「社会的排除・包摂」という概念は、大きな手がかりになると思う。著者自身が何度も「理想論かもしれないが」と言っているように、理想論過ぎるとは思うけれど。
 そもそも、「社会の仕組みに問題がある」という考え方は、珍しいものではない。引きこもりや就労支援といった分野でも、そういう考え方が広まってきている。例えば引きこもりについては、それを個人の問題ではなく、社会病理なのだと捉える。
 だけどそこから先には、なかなか進まない。観念論ばかりで、具体的な取り組みは出てこない。本書でも、「ユニバーサル・デザインの社会」の具体的な姿や方策は、何も描かれていない。
 やはり、今の社会を前提とし、いかにそこに適応させていくかというアプローチのほうが、現実的で効果があるように思えてしまう。
 とはいえ、理想は理想で大切だし、社会的包摂およびユニバーサル・デザインの社会は、目指すに値する理想に思える。
 読んで損はない本だと思う。