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正義と微笑

numb_86のブログ

シリアスゲームと「欲望の肯定」

 様々な現象は、それを生じさせている理由や要因があるから発生している。
 いきなりその状態が生まれたわけではない。理由があるから結果がある。
 その「理由」は、必然的に発生したのかもしれないし、偶然の積み重ねによって生まれたのかもしれない。
 それは様々だろう。だがとにかく、結果や現象には、全て理由や要因がある。

インセンティブこそが人を動かす

 そして、人々の行動や、組織の行動にも同じことが言えると思う。
 何らかの動機や欲望や信念に突き動かされて、行動を選びとっている。
 人々がある行動を選びとった場合、それには理由がある。何らかの理由に基づいて、その行動を選んだ。
 そして多くの場合、その理由とは、「利益」である。自分に利益があるかどうかが、判断基準になっている。


 そういう背景を無視して綺麗事や正論だけを叫んでも、どうにもならない。人々はインセンティブを刺激されないと、動かないからだ。清廉潔白な理想論では、人は動かないし、社会は変わらない。
 だから例えば、いくら「地球環境や被災地のために節電しよう」と訴えても、難しい。せいぜい最初だけだ。長くは続かない。節電することに、何のインセンティブも無いのだから。電気代は下がるが、それによって失われる利便性を考えれば、全く割に合わない。「地球のため」なんて綺麗事は、次第にどうでもよくなり、優先度は下がり続ける。


 何らかの利益や利便性、そういったインセンティブがなければ、難しい。
 いくら「正論」を唱えても、従わない。従おうとしたところで、続かない。

「正論」の虚しさ、無意味さ

 個々人の場合は、理念や美意識で動くこともある。それがその人のインセンティブになることもある。
 だが、社会全体となると、そうはいかない。
 どの程度理念を大切に出来るかは人によって異なるし、何より、当事者性が薄れ、自分事で無くなれば無くなるほど、快楽に流される。
 目の前の家族のためなら、私欲を抑えられるかもしれない。だが、「地球環境」だの、「途上国」だの、「障害者」だの、そんなよく分からない抽象的なもののために私益を犠牲にするなんて、普通は出来ない。


 結果、いくら正論を唱え、社会正義を訴えたところで、響かない。形だけの賛意は発せられるかもしれないが、行動は伴わない。


 人々の行動には、理由がある。
 節電に励まないのは、自分の利便性が大切だから。選挙に行かないのは、遊ぶ時間のほうが重要だから。自分で物事を調べないのは、メディアに流されたままのほうが、ずっと楽だから。寄付も募金も一切しないのは、自分の懐が何より大切だから。困っている人に手を差し伸べないのは、保身が一番で、面倒事には巻き込まれたくないから。


 それらの理由を無視して、「正しくない行動」を糾弾しても、あまり意味は無いと思う。というか、何も変わらない。

「欲望の肯定」によって行動を促す

 理由や前提条件を無視して「正義」や「権利」を押し通そうとしても、なかなか上手く行かない。
 それよりは、自然と「正義」が達成されるような状態を目指したほうがいい。
 強制力を使わずとも、人々が自然に「義務」を履行し、「倫理」を守るような状態。人々が自発的に「権利」の保障を大切にしようとする状況。
 それを目指したほうが、効率的に思える。
 「説教」では人は動かない。インセンティブこそが人を動かす。それをやることが自分の利になる、そういう状況になれば、放っておいてもやるようになる。


 自然に、社会正義が実現されるような状況を作り出す。
 人々のインセンティブ(欲求、欲望)を刺激するような仕掛けをつくることで、人々が自発的に、好んで、「望ましい行動」を選びとるような状況を生み出す。
 そういうアプローチに、私は関心がある。


 シリアスゲームに関心を持っているのも、その文脈で理解できる。
 ゲームの、人を惹きつける力。それを利用することで、学習や啓発を自然に、自主的に行わせる。強要されることによってではなく、ゲームを遊びたいという己の欲望のために、自分から(ゲームを通じて)学習するようになる。
 我慢や努力によってではなく、自らの意思で、学習を行っていく。


 一時期流行ったゲーミフィケーションも、同じアプローチといえるだろう。
 ゲームが持っている仕掛けや工夫を、他の分野(例えば仕事)に取り入れることで、楽しみながらそれを行える。
 楽しいからこそ、長続きする。
 面白いから、集中や情熱をもって取り組める。

なぜクレジットカードやインターネットは普及したのか

 人々は己のインセンティブに基づいて動く。ということは、人々の総体である社会もまた、様々なインセンティブの積み重ねによって形作られている。
 何かが、多くの人たちに「利益」を提供することが出来れば、その何かは瞬く間に普及し社会に浸透していく。


 例えば、クレジットカード。
 非常に身近なものとなり、多くの人が当たり前のようにクレジットカードを使うようになった。決済サービスの発展や高度化が進み、キャッシュレスの流れはますます強まっている。クレジットカードは、現代社会に深く浸透し、私達の生活を便利なものにしてくれている。
 だがそれは、人々が「クレジットカードの普及した社会にすべきだ」と強く信じ、行動を起こしたからではない。誰もそんな、義務感や正義感に基いて行動していない。一部の企業やビジネスマンはそのような理想や使命感を持っていたのかもしれないが、実際の消費者がカードを使うようになったのは、それが便利だからだ。自分に利便性や利益を提供してくれるから。そこには意思も思想もない。
 そうやって多くの人が、利己的な理由や事情でカードを使うようになった結果、カードは広く普及し、社会に深く浸透した。消費者一人一人は特にそんなことは企図していなかったにも関わらず。


 インターネットも同様だろう。インターネットはすごく便利的で魅力的であり、それを自由に使える現代日本は素晴らしいと思う。だがそれは、ただ単に多くの人がインターネットを求め、利用していったからだ。そしてだからこそ、インターネットは利益になると企業が判断し、そこに投資するようになった。その積み重ねとして自然に、インターネットは普及していった。
 別にどこかの運動家や革命家が、使命感に駆られて政治活動や言論活動を行いインターネットを普及させたわけではない。そういう人たちもいたにはいたのだろうが、実際にインターネットを利用し普及させたのは、利己的に判断し行動している普通の消費者たちだ。

アンチ・フェアトレード

 このように、インセンティブを刺激して人々に行動を起こさせることで、社会の在り方は変わる。
 それを利用して社会正義を達成しよう、理想を実現しようというのが、(一部の)社会起業だと思う。


 いわゆる「社会起業」のパイオニア的な存在であるマザーハウスでは、バッグなどのアパレル商品を途上国で製造し、それを日本や台湾で販売するというビジネスを行っている。そうすることで途上国に富をもたらし、雇用も生み出す。
 その際に重視しているのが、商品のクオリティ。マザーハウスは「途上国から世界に通用するブランドをつくる」ことをミッションに掲げており、消費者に選ばれるような商品づくりを心掛けている。
 マザーハウスの創業者は、「アンチ・フェアトレード」というタイトルで会見をしたことがある。本人が付けたのではなく、会見をセッティングした人たちの意思だったのかもしれないけれど。*1
 この「アンチ・フェアトレード」には、社会起業の考え方がよく表現されていると思う。「途上国の人たちが可哀想だから」というお情け、あるいは正義感で、購買活動を促すフェアトレード。だがそれでは、持続的なものにはなり得ない。それに、一部の「意識の高い人」しか巻き込めない。
 お情けや博愛主義ではなくビジネスの仕組みを使うことによって、たくさんの人を、自然な形で、巻き込むことが出来る。途上国支援という理念だけでなく、純粋に商品としても、魅力がある。そういう商材だからこそ、持続的な事業が可能になり、持続的な支援も成り立つ。

実際に社会を変えていくために

 シリアスゲームゲーミフィケーションは、人々の行動を変えることそのものを目的としている。社会起業は、人々の行動を変えることで、社会の在り方を変えようとしている。
 ニュアンスは異なるが、どちらも、インセンティブを刺激することで人々を誘導しようとする。
 「響かない正論」や「押し付けがましい説教」で無理やり人を動かそうとするのではなく、もっと自然に、人々が自発的に「望ましいこと」を行うようにするため、工夫を施す。


 このような手法のほうが、効率的かつ効果的ではないのかと、私には思える。
 綺麗事だけでは、人は動かない。事情や背景を無視して正論を押し付けようとしても、上手くいかない。
 インセンティブと社会正義を掛け合わせることで、自然と、問題が解決される。そういった手法に、関心がある。
 正義や権利を感情的に訴えたり、なぜそれが正義なのかロジカルに説くだけでは、徒労に終わる気がしてならない。もっと、どうすれば実際に社会が変わっていけるのか、考えなければ。
 「欲望の否定」や「欲望の制限」によって社会を変えようとするアプローチに対して、限界を強く感じている。社会を形作っているのは市井の人々や企業なのだから、彼らが自発的に受け入れ推進するような仕掛けをつくるべきだと思う。
 先ほどのマザーハウスの例で言えば、「これを買えば途上国支援になるんだから、我慢してこれを買いなさい」と微妙なバッグを押し付けるのではなく、実際に使いたくなるような、欲しくなるようなバッグを、提供する。そのほうがどう考えても上手くいきやすいし、持続可能性もある。


 通らない正論を振り回して駄々を捏ねてるような幼い態度は、もう卒業しなければならないのだろう。