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正義と微笑

numb_86のブログ

センスは本当に「人それぞれ」なのか

 センスや美しさ。そういったものは、あくまでも主観的なものなのだろうか。
 人それぞれに、各自の「美しさ」がある。だから、何を美しいと感じるかも人によって違う。それは個性であり、どこかに「答え」がある訳ではない。
 そういうものなのだろうか。

 それとも、「答え」はあるのだろうか。「人それぞれ」を越えた、客観的な尺度が存在するのだろうか。何が美であり何が醜なのか、客観的に判定できるのだろうか。センスは、普遍的なものなのだろうか。


 ポール・グレアムはセンスについて、客観的なものだと述べている。

弟が塗り絵で人を緑に塗っているのを馬鹿にしていると、母親はきっと「あなたにはあなたの好みが、弟には弟の好みがあるのよ」とか何とか言うだろう。


(中略)


大人はこんなふうに、半分だけ正しいことをよく言う。でもそういうものはたいてい、大人が言うほかのことと矛盾している。


センスは単なる個人の好みだと子供のあなたにくどくど教え込んだ後で、大人はあなたを美術館に連れてゆき、レオナルド・ダ・ヴィンチは偉大な芸術家だからしっかり見ておきなさいなんて言うんだ。


ものつくりのセンス


 自分もそう思う。客観的な尺度はあると、感じている。
 ウェブで何かを表現しようとすると、デザインは避けて通れない。そこで勝負するつもりはなくても、必然的に何らかのデザインをすることになる。
 そうすると分かるのだが、明らかに、「個人の好み」を越えたものが存在する。
 当事者になると気付く。いいデザインもあれば、悪いデザインもある。それは明らかだ。

 美しさの種類はたくさんあると思う。だから、多様ではある。画一的で絶対的な「美しさ」がある訳では、ないのかもしれない。だが、客観的な「美しさ」は、やはりある。いろんなタイプの「美しさ」があるというだけであり、美しいものとそうでないものの違いは、存在する。


 この考え方に違和感を感じる人は、美しさではなく、醜さについて考えてみるといい。

 醜さについては、万人に共通の尺度があるはずだ。
 醜い、センスないな、野暮ったい。
 多くの人がそう思うデザインというのは、確かに存在する。ウェブサイトなり、ポスターなり、ジャケットなり。
 ということはやはり、何らかの共通の尺度があるのだ。人それぞれ、では片付けられない。客観的な醜さがあるのなら、同じように、客観的な美しさもあるのではないだろうか。


 センスは相対的、主観的なものではなく、絶対的であり客観的なもの。
 この事実は自分にとって福音だと思う。

 我ながら、センスはない。生まれ持った才能はほとんど無い。幼少期にセンスを養う機会も環境も無かった。

 だが、センスが客観的なものであるのなら、「学習」によって習得することが出来るはずだ。
 もしセンスが個性や感性によってのみ成り立っているのなら、学習することは出来ない。コピーすることは出来ない。だが客観的な基準があるのならば、ひたすら学び、実践していくことで、それを自分のなかに取り込むことが出来る。
 才能を持った人には敵わないかもしれないが、ある程度の段階までは行けるはずだ。

 そこで勝負するつもりはないし、リソースにも限りがある。だから、実際にセンスの勉強に時間を費やすかは分からない。だが、学ぼうと思えば学べるということは、自分にとって大きな意味を持つ。

センスは個人の好みだと言うのは論争を避けるには良い方法だ。
問題は、それが真実でないということだ。ものをデザインし始めると、それを感じることになる。
どんな仕事をしていても、それをもっとうまくやりたいと思うようになるのは自然なことだ。


(中略)


センスが単なる個人の好みなら誰もが既に完璧だ。みんな自分の好きなものを好きになり、それでおしまい。


(中略)


ほかのどんな仕事とも同じように、ものをデザインする仕事を続けていればだんだんうまくできるようになってくる。
センスが変わってくるのだ。