正義と微笑

numb_86のブログ

オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』

 戦前の日本で弓道に打ち込んだドイツ人哲学者が、自らの経験をもとに、弓道に息づく禅の精神について描いていく。


弓と禅

弓と禅


 以前読んだ『正しい判断は、最初の3秒で決まる』で本書のことが紹介されており、興味をもった。


 著者がドイツ語で出版したものを、その教え子が邦訳したのが本書。
 口語体ではあるのだが、現代の感覚からすると文体が古い印象を持つ。そのため取っ付きにくくはあるが、内容そのものは小難しくはない。
 著者の修行の過程を描いており、具体的な記述が多い。どのような課題に取り組み、どのように苦しんだのか。

 だが、技術的な側面ではなく、内面的、精神的なものに重きを置いているため、武道を嗜んでいる人でなくても得るものは多いと思う。


 以下、要約。


 弓道は、単なる武芸やスポーツではない。
 その目的は、精神を練磨させることで、超越的な"それ"と一体になること、その境地に到達すること。禅の「奥義」や「真理」へと至ること。

 弓矢は、実は方便にすぎない。
 弓矢は目標ではなく、目標に至るための道。飛躍するための、補助にすぎない。


 だが、"それ"がそもそも何なのか、はっきり書かれていない。
 禅が目指すものについて、定義が与えられることはないし、名前すら与えられない。「奥義」や「真理」「無心」といった言葉が、断片的に出てくるだけである。
 抽象的で曖昧な記述が続いていく。

 意図が掴みづらく答えの出ない掛け合い、論理が破綻していて空疎に思えてしまう会話のことを、「禅問答」と表現したりするが、まさにそういった感じ。


 だが著者によれば、そもそも論理で理解しようとすることが、不毛なのだという。
 禅は一種の神秘主義と言える。
 それは、体験して初めて理解できる。論理では理解できない世界。


 著者はもともと、禅に関心があった。
 そして、教員として日本に滞在する機会を得たことを奇貨とし、禅の精神に到達するための手段として弓道に弟子入りした。


 稽古はまず、呼吸法から入った。
 当り前だが、稽古は全て具体的であり、理論や考え方、信仰、といったものではなく、ただひたすらに師範からの指導を繰り返し実践していく。

 そのようなきわめて身体的な工程を経て、呼吸法を修得した結果、それまで出来なかったことが出来るようになった。
 それまでどうしても出来なかった、力を入れずに弓を引く、ということが。
 なぜ出来るようになったのかは、分からない。説明もできない。だがとにかく、出来るようになったのだ。まさに神秘主義と言える。


 次の稽古は、放れ。
 力を抜いた状態で矢を放たなくてはならない。

 しかしこれが難しい。しっかり弓を引いていないと張力に負ける形で手放してしまうし、そうならないように強く引くと、身体に力が入ってしまい、放れの際に衝撃を受けることは避けられない。師範のように、無造作に、まるで遊んでいるかのように放つことが、どうしても出来ない。

 師範によれば、右手を故意に開いてはいけないのだという。
 著者は、「意図を持たずにどうして放つことが出来るのか」というもっともな疑問を呈するが、正しい弓の道には意図も目的もないと、一蹴される。意図も、目的も、そして自分自身の一切を、捨てるのだと。


 著者の幾度もの失敗を見届けたあと、師範は、新しい手順を示す。
 弓を引くためには身体の力を抜くことが必要だったが、放れのためには、精神の力も抜かないといけない。徹底的な無我。
 そのために、道場に来るまでに集中状態を作り出し、それから稽古に入りなさいと指導する。


 その方法も、呼吸から始まる。
 呼吸に意識を集中することで、外部からの刺激を感じなくなる。さらに、呼吸そのものも意識に囚われない状態に移行していく。
 そしてそこから精神を「飛躍」させることで、理想的な集中状態となる。


 このような状態で弓道に取り組むべきであり、それは、他の武道や芸術も同じ。


 墨絵や生花といった、様々な道の師。
 彼らは、退屈に思える準備や作法を、決して怠らない。弟子たちに任せることもなければ、おざなりに済ませることもない。
 なぜならば、それらの過程が、理想的な精神状態に導いてくれるから。
 「準備をするときの瞑想的な静寂」によって無心となり、その状態でこそ、正しい仕事が行われる。
 弓道の場合は、矢を放つ準備としての歩みと構えがそれにあたる。


 著者は少しずつ、禅の思想を理解していく。それだけでなく、実行できるようにもなった。
 にも関わらず、放れの瞬間にはどうしても、集中から引き戻されてしまう。


 射手は、何も考えてはいけない。自分自身から離脱しなければならない。
 射は、自分自身ではなく"それ"が行う。自分自身から徹底的に離れたとき"それ"が満ちる。
 射は、射手が射放そうと考えぬうちに自ら落ちてくるもの。

 師範はそう説くが、著者にはいつまでも「落ちて」こない。
 稽古から3年以上が経ち、後悔の念が湧き出てくる。無益な時間を過ごしたと。

 やがて著者は、ついに、弓射についても、禅についても、どうでもよいという心境になった。関心がなくなり、上手くいこうがいくまいが、気に留めなくなった。
 それでも稽古は続けた。時間の浪費に対する後悔すら消え失せ、淡々と稽古を続けた。


 ある日、射を行った直後、今まさに正しい射が行われたと、師範は著者に伝えた。
 そしてそれは、著者に対する賛辞ではなく、事実の断定。なぜなら、射を行ったのは"それ"であり、著者ではないのだから。だから、筆者を褒めるようなことはしなかった。正しい射は、射手とは無関係の事象

 なぜそれが行われたのか、著者には分からなかった。今も分からない。
 ただ言えるのは、それが起こったということ。そしてそれだけが大切なのだと、著者は言う。


 正しい放れを繰り返し行えるようになると、稽古は次の段階に移った。
 的を射抜く。
 今までは、数メートル先の巻藁に当てればよかったが、今度は、約50メートル先の的に当てなければならない。

 そしてそれは、精神の練磨によって実現する。
 精神を覚醒させれば、無我を徹底させれば、自然と的中する。技術は全く無関係。
 的に当たるかどうか自体は、重要ではない。それは単に、精神が十分な状態に達したことの、外的な証拠、確認に過ぎない。


 だが筆者には当然、理解できない。
 なぜ、内面が頂点に達すると、外面的にも、的への的中が実現するのか。どうしてこの2つが結びつくのか。
 技術的に、意識的に狙いをつけなくても、無我を徹底させれば的に当たるということが、どうして起こるのか。
 そんなことが本当に起こり得るのか。

 このようなもっともな疑問を繰り返しぶつける著者に対して師範は、頭で理解しようとすることの不毛さを説く。
 いま我々は、理解の及ばぬ領域について扱っている。自然の中には、理由を論理的に説明できないが事実としてそうなっている、という事象が多々ある。正射も、まさにそれ。


 師範の指導のもと、ついに、時々は正射を行えるようになった。
 だがそれを誇るような態度は、厳しく諌められた。
 悪い射に腹を立ててはならないように、よい射に喜んでもいけない。快と不快を行ったり来たりする態度を克服しなければならない。

 やがて著者は、気持ちの動揺や蠢きを、撲滅した。「弓と矢と的と私とが互いに内面的に絡み合った」状態に到達した。


 本書で描いた「弓道」は、もはや戦いのなかで弓道が必要とされなくなったがために、過度に精神化されたものであり、本来の弓道とは別のものである。
 そのような読者の疑念を、著者は否定する。

 弓道は昔から、精神的なものであった。禅の本質と結びついていた。
 事実、剣道や書道、華道にも、同じ精神が息づいている。

 剣道の奥義は、弓道と同じく、無心。剣の使い方を意識すればするほど、それは下手となる。
 意識的な観察や考慮をすることなく、無意識に回避し、攻撃を与える。意図するよりも早く、身体が動いている。
 弓道において"それ"が射るように、剣道においては"それ"が、剣を正しく動かす。

 墨絵や生花にも、同じことが言える。
 名人においては、彼の精神が形作られるのと同時に、文字通り「間髪を入れず」に手が動き、精神に浮かぶものに形を与える。

 なお、著者の妻は、著者と共に弓道に入門しただけでなく、墨絵や生花についても弟子入りしており、著書も残している。


**


 一番印象に残ったのは、禅は、ただ経験によってのみ知覚できるということ。
 現代社会の我々は、論理を過剰に信奉しすぎている。論理で説明できないものは認めない、という態度。
 だが、『正しい判断は、最初の3秒で決まる』で書かれていたことだが、論理や演繹は、究極的には、トートロジーに過ぎない。同じことを別の表現で言い換えているだけ。だから、新しいものは何も生まれない。

 論理、意図。そういったものを重視しすぎて、それこそが真実だと思い込んでいるが、あくまでもそれは、世界との関わり方の一部に過ぎない。
 本書では、その対極にある直観や無意識を強調している。
 こういう視点に気付けたのは、よかった。


 しかし、禅の精神や奥義を、ただ体験することによってのみ知れるのだとしたら、本書を読む意味はどこにあるのだろうか。
 直接体験しなければ、意味がないのではないか。

 そうは思わない。体験はできなくても、そういうものがあると感じること、その存在を知ること、それには意味がある。
 そもそも、実際の弓道においても、師範は必要だ。一人で奥義に達したものなどいない。
 最終的には自分自身で体験するほかないとしても、そこまで導いてくれる道標は、必要。


 もちろん、私も含めて大多数の人は、禅の道に入門するつもりはない。苦しい稽古の日々を送るつもりはない。
 それならば、禅について知る必要がどこにあるだろうか。なぜそれを学ぼうとするのか、その精神を感じ取ろうとするのか。

 人それぞれだろうが、自分の場合は、自分の生きづらさを解決してくれるような気がしたから。


 肥大した自意識、強すぎる我執。引きこもりだった自分は、そういった心的傾向こそが自分を苦しめるのだと気付いた。
 それから、無我や無心、自然体のようなものを掲げる禅に関心を持った。その精神を知ることで、もっと楽に、伸び伸びと生きられるのではないかと期待した。
 禅に近づくことで、囚われない心、動じない心、超然とした精神を得られるのではないかと考え、鈴木大拙の本を手に取ったりした。
 大した成果は得られなかったが。よく理解できず、放り投げたんだったと思う。


 本書を読んで、人生のヒントを得られたか、人生を楽にするための取っ掛かりを得られたかといえば、そういう感じはしない。
 だが、禅について初めて、その輪郭に触れることができた気がする。それがどういうもので、何を目指しているのか。
 禅の入門書としては、十分に役立った思う。面白くて、刺激的な本だった。