正義と微笑

numb_86のブログ

自分で自分を幸せにする技術

 他人の言動に振り回されることなく、自分自身の行動によって、幸せを感じ取れる。
 そういう能力が、とても大切だと思う。


 引きこもり、対人恐怖症である自分自身を観察するうちに、自己肯定感が大切だとの考えに至った。
 そして自己肯定感は、私だけでなく、多くの人にとって重要なものだと思うようになった。

 自己肯定感の欠如、つまり、自分を信じることが出来ず、自分は間違っているのではないかという疑念を常に拭えず、自分の状態や行為は場にそぐわないのではないかという不適切感にも支配されている状態。
 これは、この状態自体が不快、不安であるだけでなく、その人の生活に非常に悪い影響を与える。

 人と関わっていくことが出来ない。他人に近づいていくことが出来ないし、機会を持てたとしても、自己開示できない。怯え、警戒しながらの人間関係。人とつながる、積極的に交流する、ということが制限されてしまえば、人生に深刻な影響を及ぼす。
 前向きなマインド、積極性、挑戦する勇気。これらは人生を切り開くために重要な資質だが、いずれも、自己肯定感に支えられている。自分を信じられない人間がこれらの資質を発揮することは、難しい。
 人生や人間関係は、常に上手くいくわけではない。失敗や喪失は、必ず訪れる。そこでまた挑戦できるか、諦めずにいられるか、捨て鉢にならないか。これが大切なのだが、自己肯定感が不足している人間は、諦めてしまいがちである。ちょっとしたことで「折れやすい」状態であるといえる。


 簡潔に表現すると、積極性を持てない、ということになるだろう。あらゆる局面で、消極的、逃避的、保身的、自閉的になってしまう。
 積極性を持てないことが、自己肯定感の欠如による弊害だと思っていた。


 だがこれは一面に過ぎないことに、気が付いた。
 他にも、重要な要素があった。


 自己肯定感が不足している人間は、なんとかして、その状態を解消しようとする。
 無意識のうちに、自己肯定を得ようとする。自己肯定に飢えている、と言っていいだろう。

 すると、どうなるのか。

 他者からの肯定を、貪欲に欲してしまうのだ。
 他者から肯定を得る、それが、最優先されてしまう。
 自己肯定感が欠如している人間は、社交術も不足していることが多いから、巧みに、積極的に肯定を求めていくことは少ない。だがそれでも、心のなかではじっと、肯定を得るチャンスを狙っている。

 この場合の「肯定」は「承認」と言い換えていいだろう。
 認めてもらいたい、チヤホヤされたい、優越感を感じたい、受け入れて欲しい、癒して欲しい。
 そういう感情が、心のなかに渦巻いている。誰だって多少は持っている欲求かも知れないが、あまりにも強すぎて、はしたない、というレベルに達してしまっている。


 自分を肯定してくれ、承認してくれ、というこれらの欲望をコントロールできるのならいいのだが、それが出来ない場合、行動や振る舞いが醜悪になっていき、人間関係は歪なものになっていく。


 全ての基準が、自分に承認(肯定)を与えてくれるかどうか、になってしまう。
 承認してくれそうな人物を優先し、承認してくれそうな人間関係を優先する。

 自分を受け入れてくれそうな人、この人に承認されたら嬉しいなと思う人、そういう人を優先し、そうでない人を軽視する。友達を選ぶ、というのは自然な行為だと思うが、あまりにも極端なのは品がないし、何より、友達を選ぶ基準が「自分を承認してくれるかどうか」に偏っているのは、健全とは思えない。
 そして、どういう人間関係を築くかも、承認が基準になってしまう。隙を見ては相手の気を引こうとする、構ってもらおうとする、褒めてもらおうとして自分を誇示しようとする、何かにつけてアピールをする、自分にとって都合がいい展開になるよう話題を誘導しようとする、自分の欠点は頑なに隠す……。承認が欲しくて欲しくてしかたがないという欲求が、そのまま行動に反映されてしまう。そうやって、どんどん醜悪になっていく。


 承認を求め続けるこの亡者は、必然的に、エゴイストになる。
 認めてもらうこと、優越感を感じることが第一になってしまい、相手のことは何も考えない。相手も独立した一人の人間である、という当たり前のことすら、忘れがちになる。このエゴイストに、相手のニーズを考えるであるとか、相手を楽しませるといった発想が、あるわけがない。あるのは常に、己の利益のみ。肯定されることばかり考え、自分が相手を肯定することなど、思いもよらない。


 エゴイストではあるが、同時に、他者の顔色を窺い、振り回され続ける、臆病者でもある。貧弱な心。
 常に他者からの承認を欲しがり、それを手に入れようと腐心しているが、必ず得られるとは限らない。承認を与えるかどうかは、相手次第。自分では決められない。だから、怖くなる。
 どうしても受け入れられたい、それしか頭にない、だけどもしかしたら、拒絶されるかもしれない。
 その恐怖ゆえに、臆病になる。オドオドしながら、相手の顔色を窺う。そして、ご機嫌を窺いながら媚びへつらい、何とかして受け入れてもらおうとする。相手の一挙手一投足を注視し、自分の行動が相手にどう映ったのか気に病み、怯えながら過ごす。


 エゴイストであり、臆病者。
 こんな状態では、まともな人間関係は築けないし、人格が成熟することもない。
 そして、人は自分のもとから去っていく。
 心が満たされることはなく、ますます、承認を渇望するようになる。


 ではどうすればいいのだろうか。
 肯定への渇望、そこから自由になるには、どうしたらいいのだろう。他人に甘え、依存するような態度から、どうやって脱すればいいのだろう。


 自分で自分を幸せにする技術、自分自身が自分に対して肯定を与える能力。
 そういったものが、一つの答えになると思う。


 そもそも、肯定や幸福を他人に依存するところから、病理が始まっている。
 自分に自信がないから、他人に認めてもらうことで、自信を回復しよう。この態度が、そもそもの間違いだった。
 これでは、自分が幸福になれるかどうかは全て、相手の言動によって決まってしまう。相手が自分を肯定してくれれば、安心感や優越感が湧いてきて、(一時的な)自信が満ち溢れてくる。逆に、肯定を得られなければ、落胆し、いつものように、自分に対する疑心暗鬼が始まる。

 この、自分を肯定できるかどうかを周囲の人間に依存してしまっている、という構造が、相手を道具や手段としてみなす態度や、オドオドした情けない態度を、引き起こしている。
 だから、相手に依存するのではなく、自分自身で自己肯定を作り出すようになれば、問題は解決するのではないだろうか。


 相手からの承認ではなく、自分の行動によって、自分自身を肯定できるかどうか判断していく。

 チヤホヤされるかどうかではなく、自分で納得できるような行動を取れたかどうか。
 周囲からの評判を勝ち取れたかどうかではなく、自分が正しいと思える行為を行えたかどうか。
 褒められたかどうかではなく、利己主義や虚栄心に支配されずに自分をコントロールできたかどうか。

 そのように行動できたことを根拠に、幸福を感じ、自己肯定していく。そういう態度や価値観を持つ。


 自分を肯定するかどうかは自分で決めることであり、相手の反応には左右されないのだから、相手の顔色を窺うこともなくなるし、相手を利用しようという傾向も消える。
 そもそも、既に自己調達する形で自分を肯定できているのだから、それによって安定しているのだから、必死になって肯定を得ようとすることがなくなる。「認めてくれ、受け入れてくれ」という、情けない欲望に突き動かされながら、相手に何かを期待することはなくなる。
 もはや、他人から承認されるかどうかは、自分にとっての重大事ではなくなる。自分の存在に関わるような一大事ではなくなる。