正義と微笑

numb_86のブログ

佐伯啓思『自由とは何か 「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』

 私たちは、政治や社会問題を語る際、とにかく自由に結びつけて論じなければ気がすまないほど、自由というものを大切にし、信じている。
 本書では、普段疑いもなく信じ込んでいる「自由」が抱えている特徴や本質を、描き出していく。
 「自由とは何か」というタイトルだが、答えは提示されておらず、あくまでも視点や論点を提示することに主眼が置かれている。そのため分かりやすい「答え」を期待していると、肩透かしを食らうだろう。


自由とは何か (講談社現代新書)

自由とは何か (講談社現代新書)


 「自由」は、現代社会の核と言ってもいい。誰もがそれを信じているし、何よりも大切にしなければならないものだと口をそろえる。
 自由を巡る議論も活発だ。
 だが、そこで繰り広げられる内容は、とても充実しているものとは言いがたい。錯綜し、混乱し、衰退している。現実から乖離してしまっているし、矛盾や錯誤で満ちている。浅薄なロジックも多い。


 このような状態は、自由に対する認識が誤っているために、生じてしまっている。
 建設的で有意義な議論をするためには、自由について深く理解する必要がある。
 これが絶対の答えということでは勿論ないが、本書で提示されている視座は、非常に重要なものだと思う。


 自由を語る時、国家や規制は、自由を縛るものだと見なされることが多い。
 国家権力や規制が強ければ強いほど、個人の自由は制限されていく。だから、権力を監視し、規制や管理に抵抗することが大切だという。
 確かにその通りだ。

 だが同時に、自由は国家や規制によって支えられている、というのも事実。

 理想はどうあれ現実には、国家こそが、私たちの自由を保障してくれている。国家権力を基盤にした、法律や警察、司法、様々な行政サービス、そういったものがあってこそ、私たちの自由な暮らしはある。もし国家が消滅してしまえば、今のこの暮らしも崩壊してしまうだろう。

 規制にも、同じことが言える。例えば経済においては、所得の再分配を行ったり、最低賃金を設けたり、一部の業種にはライセンスを必須にしたりすることで、個人や企業の自由を制限している。もしこれらを全て撤廃し、自由を押し進めていけば、公平な競争やセーフティネットが失われ、健全な市場そのものが崩壊してしまうだろう。

 自由と国家。自由と規制。
 これは、単純に対立する関係ではない。支えあう関係でもある。このことを認識しておかないと、議論の質は落ちていく一方だろう。
 自由を実現するために単に国家や規制を攻撃すれば、実は、自由の土台そのものを破壊してしまうことになりかねない。


 現代における自由の考え方は、リベラリズムという思想や立場が、ベースになっている。
 そのため本書でも、リベラリズムについての解説や、それが抱えている問題点について、多くを割いている。


 論理実証主義と、価値相対主義。この2つが、リベラリズムの柱。

 論理実証主義とは、論理的、客観的に証明できるものだけが事実である、という考え方。逆に、そうでないものは主観的なものであり、事実の名に値しないと考える。論理実証主義は現代科学の基礎になっており、魔術や呪術の類を取り除くことで科学は大きく発展した。

 そして、論理実証主義の延長線上に、価値相対主義がある。何が正義なのか、何に価値があるのかは、客観的に証明することは出来ない。だから、それらは全て主観的なものに過ぎない。端的に言えば、「人それぞれ」ということになる。
 絶対的な価値というものは存在せず、人それぞれが自分の価値観を持っている。善悪や正義の感覚は、人によって異なる。そして、そのうちのどれが正しいのか、優れているのか、ということは決めることが出来ない。これが、価値相対主義である。

 価値相対主義論理実証主義がベースになって、現代的な自由の概念は生まれた。
 何が正しいかは、人によって違う。そしてそこに優劣はない。だからこそ、個人の選択の自由、という観念が重要になる。


 リベラリズムの中心的な考え方に、「善に対する権利の優位」(善に対する正の優位)というものがある。
 これも、価値相対主義を土台にして生まれた考え方である。

 リベラリズムでは、どのような人生や価値観が素晴らしいか、という問題(善)については、関知しない。
 リベラリズムが重視するのは、それがどんな内容であれ、各人が自分の意思で人生を選択できるか、そのための権利が保障されているか、である。
 どんな生き方をするのかは問わない。なぜならそれは、人それぞれであり、どんな生き方が正しいかは本人にしか決められないから。だから、大切なのは選択の自由であり、選択する権利である。誰かに、人生の選択を強制されてはいけない。
 逆に言えば、選択する権利さえ保障されていれば、その権利を使って各人が何しようとも関係ない、というのがリベラリズムの立場である。


 上記のようなリベラリズムの考え方を、私たちは無意識に信じ込んでいる。
 だがリベラリズムには、いくつかの重要な誤りがある。


 まず、「価値」と「好み」を一緒くたにしてしまった。

 確かに、市場でどの商品を選ぶかとか、どんな音楽が好きかとか、今日の昼食を何にするかとか、そういった「好み」は人それぞれである。
 そして、主観的という意味では、「価値」も「好み」も、同じではある。

 だが、何が正しいのか、何が善なのかといった、善悪や倫理に関するものは、単なる「好み」とは異なり、本質的に社会性を持っている。
 私たちは、単なる個人的な信条だけでなく、社会的な倫理観を持っている。
 本書では援助交際などが例に挙げられているが、「援助交際はよくないことだ」という価値観は、その人がただ個人的に思っているだけでなく、社会的に望ましくないことだと考えている。
 リベラリズムに従えば、援助交際するもしないも本人の判断であり、「ま、人それぞれだよね」で済ませるべきだが、私たちはそういう感覚は持っていない。望ましくないことだと考える。

 最近、ある少年犯罪の加害者が手記を出版し、多くの批判を浴びたが、これもリベラリズムの考え方とは一致しない。
 リベラリズムに従えば、手記を出すのも出さないもの本人の自由だし、彼には表現の自由がある。他人が口を出すのは筋違いだ。
 だが私たちは、そのような考え方には少なからず違和感を覚える。

 「価値」は単なる「嗜好」とは異なり、社会性を持っている。普遍性を求め、排他的になる傾向がある。
 価値は対立し、衝突しあう。相手の自由を制限しかねない。
 だからこそ、その事実を認め、お互いに譲れないものを持っているんだと認識し、それを尊重し合おうとすることが大切なのだ。
 リベラリズムはそれを見て見ぬふりをして、「価値」は個人的なものに過ぎず、最初から対立なんかしないと考えてしまった。


 次に、リベラリズムは善ではなく権利を重視すると書いたが、実際には、その権利の中身は、善に影響を受ける。
 何が善で何が望ましいか、その価値判断が最初にあり、そこから、権利の内容が決まってくる。
 だから、善から切り離された抽象的な「権利」が存在すると考えるリベラリズムは、現実を大きく見誤っていると言える。

 例えば、年金や生活保護最低賃金
 これらは、市場競争に敗れてしまった者や、市場における「弱者」を救済し、保護するための制度である。
 私たちは、程度の差こそあれ、これらの制度を支持している。

 だが中には、これらの制度に否定的な人もいる。
 彼らは例えば、最低賃金を批判する。そんなものは、市場の競争原理を歪めてしまうから、よくない。もっと自由に価格競争させるべきであり、そのほうが経済は上手く回っていく。そう考える。
 また、年金や生活保護のために社会保険料や税金を上げることにも、否定的。市場競争の結果は受け入れるべき。勝者は多くを手に入れ、敗者は少ない報酬で我慢する。そこを操作し、敗者を救済してしまうと、モラルハザードが起きる。「公平な競争」が揺らいでしまう。稼いでも税金で取られてしまうのであれば、能力がある人たちのモチベーションにも悪影響を与える。
 こういった「価値観」を持っている。

 その一方で、これらの制度に賛同し、もっと強化すべきだという人も当然いる。
 彼らは、過度な格差がもたらす危険性であるとか、貧困問題、市場の失敗、などを理由に、セーフティネットや再分配の強化を主張するだろう。
 それが彼らの「価値観」だ。

 どちらが正しいか、はここでは議論しない。
 重要なのは、人によって異なる価値観を持っており、それよって「権利」や「自由」の内容も変わってくるということだ。

 能力主義的な人にとっては、市場競争に参加する機会が保障されており、そこでの結果を全て本人が手に入れられることが、「権利」だと考えるだろう。
 規制や介入によって自由な競争が制限されたり、再分配によって報酬の多くを取られてしまうことは、権利の侵害だと考える。

 一方、福祉主義的な人にとっては、競争の結果に関係なくそれなりに豊かな生活を送れること、競争に敗れても救済が用意されていること、能力的に不利な人には優遇措置が用意されていること、などが、「権利」だと考えるだろう。
 過酷な競争にさらされ、その結果が全てを決めてしまう状況は、個人の権利が侵害されていると見なす。

 このように、何を「保障すべき個人の権利」とするのかは、どのような価値観を持っているのかによって変わってきてしまう。

 しかも、どんな価値観を掲げるかは、集団的に決定する。
 だから、福祉主義の国に生きる人たちは、福祉主義という価値観に従わないといけない。能力主義的な考え方を持っている人でも、それに抗うことは出来ない。福祉主義に基いて、その国の制度や税制は作られているのだから。

 となると、抽象的で普遍的な「権利」が保障されており、それに基いて個人が自由に生きていく、というリベラリズムの考え方は、かなり疑わしくなってくる。


 現実の私たちは、リベラリズムの想定とは異なり、社会のなかで善や価値観を共有している。
 そして、私たちは社会のなかで生きているのであり、そこから影響を受けている。
 個人が自由に選択しているように見えても、必ず、状況や文脈の影響を受ける。そこから切り離されて個人が生きているわけではない。どんな社会で生きており、その社会がどんな善を想定しているのかに、少なからず影響を受ける。
 社会が共有している価値観や規範に従うのか、抗うのか、それはともかくとして、無関係でいることは、そもそも不可能。

 その現実を無視し、間違った認識や想定を行ってしまったことで、自由を巡る議論は退化してしまった。


 さらにいえば、自由や権利はあくまでも手段であり、それ自体は目的ではない。あくまでも、私たちが幸福に生きられるようにするための手段として、自由や権利がある。いくら自由が与えられていても、本人が幸福や充足感を得られなければ、意味が無い。
 そこを転倒させ、あたかも自由こそが至上の目的であるとしてしまったことも、リベラリズムの大きな誤りの一つである。


 自分なりに本書を要約すると、このような感じになる。
 最初の述べたように、「どうすればよいのか」という答えは提示されていない。
 むしろ、絶対的な答えは存在しないのだと理解し、都度、判断し選択していくことが大切なのだと思う。本書で示されているように、現実は常に具体的であり、その状況や文脈に依存するのだから。
 それを無視して、画一的で単純な「自由」というドグマを押し付けたところに、そもそもの誤りがあった。
 そうではなく、自由という観念は非常に複雑で様々なジレンマを抱えているということを自覚しながら、問題に取り組むべきなのだと思う。

「自由」はさしあたりは、「個人の選択の自由」でよい。しかし、その背後にあるものを見なければ、とても「自由」を理解したことにはならないと思う。そして、この背後にあるものもあえて排除しようとした点にこそ、現代の自由の混迷があるといわざるを得ないのである。
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