正義と微笑

numb_86のブログ

デヴィッド・スタックラー&サンジェイ・バス『経済政策で人は死ぬか?』草思社

 誤った経済政策は人の命を奪う。それが本書の結論だ。

 公衆衛生学や統計学の専門家である著者たちは長年、経済政策が人の健康や命に与える影響を研究してきた。
 それを一般向けに分かりやすく解説したのが本書である。

 経済政策は人命に深刻な影響を及ぼす、だからこそ私たちはイデオロギーではなくデータやエビデンスに基いて経済政策を選択すべきだと、著者たちは主張する。


経済政策で人は死ぬか?: 公衆衛生学から見た不況対策

経済政策で人は死ぬか?: 公衆衛生学から見た不況対策


積極財政か、緊縮財政か

 経済政策は人々の健康や生死に重大な影響を与える、というのが著者たちの主張だ。

 だが一口に経済政策といってもその中身は多種多様で複雑であり、それを一つずつ評価していくのは大変だし、一般向けの書籍では現実的ではない。

 そこで本書では、積極財政か緊縮財政か、を対立軸にすることで、論点を明確にしている。
 細かな政策の是非よりも、大まかな方向性を論じることに重きを置いている。


 政府が積極的に予算を使い、経済に介入していく積極財政か。
 それとも、出来るだけ予算を削減し、政府の介入を最小限にしようとする緊縮財政か。


 結論から言うと著者たちは、積極財政に軍配を上げている。

 積極財政こそが、人々の健康に好影響を与え、経済に対してもプラスに作用すると論じている。

健康への影響と、経済への影響

 ここで重要なのは、積極財政が、健康だけでなく経済にもプラスになる、ということだ。

 経済政策が健康に与える影響と、経済に与える影響。この2つは分けて考える必要がある。
 健康にはプラスでも経済にはマイナス、ということもあり得るからだ。


 政府が予算を拡大し、福祉などの社会保障政策を充実させれば健康にプラス、というのは、当たり前といえば当たり前である。
 政府の予算を削って民営化を進めることが効率化やサービスの充実をもたらす、という考え方もあるが、医療については当てはまりにくい。


 本書の重要な点は、それが経済や財政にもプラスだと主張しているところである。


 無論、予算を増やせば必ず経済がよくなる、ということではないだろう。
 現実には、積極財政か緊縮財政かの二者択一ではなく、バランスを取っていくことになる。そして、何が適切なバランスかというのは、その時々で変わってくる。


 だが、予算を増やすことが健康にも経済にもプラスに作用しやすく、予算を減らせば逆方向に進みやすい、というデータがあることは、政策を考えるうえで重要な意味を持つだろう。

支出が経済にもたらす効果

 ではなぜ、政府の予算を拡大すること、つまり積極財政が、経済を刺激し、債務の削減にもつながるのか。

 いくつかの要素がある。

政府支出乗数

 これは、「政府支出を1ドル増やしたときに、国民所得が何ドル増えるか」という数値。

 これが1を上回っていれば、例えば3だとすれば、政府が1ドルを支出した結果、経済は3ドル成長するわけで、政府支出は合理的だということになる。支出を拡大しても、それ以上に経済が活性化することになり、税収も増える。

 予算の削減を主張する論者、例えばIMF(国際通貨基金)などは、この政府支出乗数を低く見積もる傾向がある。また、分野ごとの乗数の差異も、見落としがちである。

 だが著者たちの研究によれば、これは過小評価しすぎであり、実際は1を上回っていることも多い。

 そして、分野によってこの政府支出乗数は大きく異なる。例えば、医療関連予算の乗数は3を超えるが、防衛予算は1以下、ということがあり得る。
 考えてみれば当然のことで、その国の産業構造や社会構造によって、分野ごとの乗数効果には差異が生じる。

早期医療による、医療費の削減

 公衆衛生に予算を投入することで、国民の健康を高い水準に維持し、結果的に医療費の増大を回避することが出来る。

 財政再建の手段の一つとしてよく、医療保険関連予算の削減が挙げられる。
 保険料の引き上げ、自己負担の拡大、など。

 しかしこのような処置は、短期的な予算圧縮には成功しても、長期的には財政の悪化につながる可能性が高い。

 医療費が引き上げられれば必然的に、国民の足は医療から遠のく。以前よりも、診察を受ける際のハードルを自主的に高く設ける。今までは病院に行っていたケースでも、我慢するようになる。
 また、政府による予算が削減されれば、国民に提供される医療サービスの質が低下する恐れがある。

 結果、国民の健康水準は悪化し、重症患者も増加する。
 その対応に追われることになり、却って高くつくのだ。

 公衆衛生や国民皆保険制度を強化することが、長期的には医療費を抑制することになる。

失業対策による、福祉依存度の低下

 労働政策に予算を投入することで、失業者の能力開発や再就職を支援し、経済の活性化につなげる。

 失業手当はもちろん大切だが、それ以上に大切なのは、失業者を減らすことである。
 そのために有効なのは、再就職に向けた手厚い支援である。トレーニングを受けたメンターを配置し、再就職のための能力開発や求職活動を支援する。
 さらに、企業側の雇用拡大を促すプログラムも並行して行うことで、効果は高まる。

 このような対策には当然、それなりの予算が必要となる。
 しかし失業者を減らすことが出来れば、失業手当などの福祉に依存する人たちが減ることなり、その分だけ予算は浮く。
 さらに、失業者が再就職すれば、納税者が増えることになり、税収は増加する。


 上記は、本書で紹介されている内容の一例だが、著者たちはこれらには全て裏付けがあるとしている。

 本書では、経済政策は人命に大きな影響を与えるのだから、イデオロギーや思い込みではなく、事実やデータに基いて冷静に選択すべきだと、繰り返し主張している。

 その考え方は当然、著者たち自身の態度にも適用されており、机上の空論や思い込みではなく、専門的な統計や分析を経たうえで、積極財政に肯定的な考えに辿り着いている。


 著者たちは、歴史的事実や各種指標に基いて研究を進めてきたが、それが可能だったのは、そのためのデータが揃っていたからだ。
 どんな研究も、それを実証するものがなければ推論や予測の域を出ないが、著者たちには豊富な実例が用意されていた。
 それが「自然実験」である。「自然実験」から、様々なデータを得ることが出来た。

自然実験によって明らかになった経済政策の影響

 新薬が開発された際、それがいきなり商品化されることはない。
 慎重に検証を重ねてから、市場に投入されることになる。

 Aという新薬の効果を調べるために有効なのは、被験者を2つのグループに分け、一方にAを投与し、もう一方には投与せず、その後の経過を見ることである。


 社会政策にも同じことが言える。

 積極財政や緊縮財政が社会に与える影響を調査するためには、同じ状態にある2つの社会に対し、一方には積極財政を行い、もう一方には緊縮財政を行う。そうすれば、有意義なデータを得られるだろう。
 だがこのような状況を人為的に作りだすのは、現実的ではない。

 そこで、似たような状況を過去の歴史から探し出し、それを研究対象とするのである。
 これが「自然実験」である。


 著者たちにとっては幸いなことに、「自然実験」は何度か行われていた。


 例えば、ソ連崩壊後の市場経済への移行期。
 ロシアやその衛星国であった東欧諸国は、社会主義から資本主義に移行していくなかで、大きな痛みを強いられた。

 だがその進め方は、大きく別れた。
 ロシアなどの多くの国は、西側諸国からの圧力もあり、急激に民営化や自由化を進めた。
 だがその一方で、ポーランドベラルーシなどの一部の国では、様々な要因により、市場経済化は漸進的にしか進まなかった。


 また、アジア通貨危機の際にも、同じような状況が発生している。
 各国が通貨危機の影響で経済に大きなダメージを受けたが、その際の対応は2つに別れた。

 タイ、インドネシア、韓国などは、IMFなどの圧力もあり、大幅な予算削減を余儀なくされた。その中には、医療関連予算も含まれている。
 これに対してマレーシアは、緊縮財政を拒絶し、むしろ社会保障予算を増加させた。


 近年の金融危機でも、その対応は別れた。
 ギリシャのようにIMFなどからの要請を受け入れ、大規模な緊縮財政を実施した国がある一方で、アイスランドのように、同じくIMFから支援を受けておきながら、国民投票で緊縮策を拒否した国もある。


 このような様々な「自然実験」を検証した結果、著者たちは積極財政に軍配を上げている。
 積極財政を実施した国ではいずれも、緊縮財政を実施した国と比較して、国民の健康も経済も改善したからだ。

 積極財政を行った国では、死亡率や自殺率の悪化を抑えることが出来た。精神疾患(主にうつ病など)の患者が急増することもなかった。
 一方で、緊縮策が取られた場合、状況が改善されるどころか、近年発生していなかった感染症が発生するなどのより悲惨な状況に陥っている。

 経済・財政面でも、同様の傾向が見られた。


 この結果から分かるのは、不況は国民生活に悪影響を与えるが、それ以上に、不況への対応策による影響が大きいということだ。
 どのような対応策を取るかで、国民の運命は大きく分かれる。

自殺の増加は、不況ではなく、「不況への対応策」が原因

 不況による社会への影響と、政策による社会への影響。この2つは分けて考える必要がある。

 不況という現象が与える影響。緊縮策という政策が与える影響。この2つを区別しなければ、本書の重要な論点を見落としてしまう。


 不況になれば社会がダメージを受けるのは当然である。だがそのダメージの度合いや、そこからの回復の成否は、政策に左右されるのだ。

 だからこそ著者たちは、これまで各国で行われてきた、極端で急進的な緊縮財政を強く批判している。

机上の空論やイデオロギーによってではなく、データや裏付けに基いて冷静に政策を判断する社会へ

 本書によれば、緊縮財政を推進している人たちは、イデオロギーや神話に囚われているという。
 どんなときでも市場化や自由化の促進は正義であり、どのようなケースでも国家の関与は少なくするべき、という思い込み。

 だが、それはただの神話であり、根拠や裏付けはない。

 本書は、そのような神話やイデオロギーで政策が決定していくことを、厳しく批判している。そうではなく、事実や証拠に基いて議論し、政策を選ぶべきだと訴える。


 だから、とにかくどんなときも積極的に政府の予算を拡大すべき、というのは本書の主張ではないだろう。
 積極財政が人の命を救うにしても、具体的にどのように進めるべきかは、状況によって変わってくる。
 それに、当然のことだが、市場化や自由化の推進が必要なケースもある。

 その時々で、大胆な積極策が必要なこともあるし、市場メカニズムを取り入れるべき局面もある。

 それは、TPOで変わってくるのだ。
 そしてそれを見極めるためには、事実に基づいた冷静な議論が行われる必要がある。


 著者たちは、そのための資料の1つとして活用して欲しい、という気持ちで本書を上梓したという。
 専門用語を避け、これまでの研究成果を一般向けに分かりやすくまとめてある。

 一般向けを意識した書籍であるため、細かいデータは省かれているし、議論の厳密性が徹底されているわけでもない。
 だが本書には多くの注釈が付いており、参照すべきデータや論文が案内されている。
 もっとも、そのほとんどが英語ではあるが。


 本書の目的は、データを事細かに示すことではない。それは主題ではない。
 それを知りたいという人は、著者たちがこれまで発表してきた論文をあたればいい。

 経済政策が人の健康や生命に影響を与えること。だからこそ、慎重に、冷静に判断すべきであり、思い込みで決定してはいけないということ。

 それこそが本書の主題である。


 本書の最後で、社会経済政策を審議する際に、公衆衛生の観点からもチェックされるような制度を設けるべき、という提案がなされている。

 経済政策や社会保障政策を軽視している人はいないと思うが、健康に与える影響は、もっと丁寧に検証されるべきだ。ちょうど、新薬を導入する際に何度も丁寧に科学的なチェックが行われるように。

 何故なら、経済政策は、どんな新薬や医療機器よりも、国民の健康や生死に広範な影響を与えるからだ。