正義と微笑

numb_86のブログ

創作活動と恥ずかしさ

 とにかく恥ずかしい。

 何らかの創作をするのは、自分の頭のなかを覗かれるのと同じだと思う。
 自分の趣味、自分の感性、自分の価値観。そういうのを覗かれる。

 何らかの創作をすれば、そこには必ず、自分の頭や心の中が投影される。だから他人に見られることになる。

 テクニックを駆使したり、「これはネタですよ、ギャグですよ」と予防線を張ったりすることで、多少は誤魔化せるかもしれない。
 だが限界はある。

 創作をすればそこに必ず、自分の個性が反映される。
 作品には必ず、個性が浮かび上がってくる。にじんでいる。


 創作とは、自分を表現するということだ。
 必ずそうなる。
 創作物は見せても自分は見せません、なんて無理だ。必ず自分が現れる。

 自分を見られてしまう。俺がどういう価値観で、どういう感性なのか。
 頭のなかを、心のなかを、見られる。


 それがとにかく恥ずかしくて仕方がない。自分を見られて、批評されてしまうことが。

 「へえ、お前ってこんなこと考えてるんだ」。

 これがたまらなく恥ずかしい。


 俺はもともと、自己開示が極端に苦手である。

 自分の心を覗かれるのが、極端に苦手で恥ずかしい。
 過剰な自意識、対人関係における劣等感などが、原因なんだと思うけど。

 子供の頃から、自分を見せないようにしてきた。とにかく波風立てずに。
 自分を知られることが怖かった。笑われたり後ろ指を指されたりするような気がして。
 だから本心を見せることなく、周囲の顔色を窺いながら、当たり障りのない言動を心掛けてきた。

 今は多少は改善されたけど、根本的に治ったわけではない。そういう傾向は強く残っている。

 自分の内面や嗜好、個性が露呈してしまうことは、たまらなく恥ずかしい。
 自分を出す、ということがとても苦手だ。


 そんな人間が創作をしようというのだから、常軌を逸している。


 一体どっちなんだよ。
 自分を見せたいのか、見られたくないのか。


 引き裂かれている。
 過剰な羞恥心と過剰な自己顕示欲に引き裂かれて、訳が分からなくなっている。
 見ないでくれ、止めてくれ、という気持ちと、俺を見ろという気持ちが、同居している。


 創作をしようとする人間なんて、大抵は、自己顕示欲が強い。
 俺を見ろ、俺様の考えたアイディアや作品をありがたく拝め、という気持ちが、心の奥底にある。

 創作しようとする人間は皆そうだと思う。
 そしてどうやら、羞恥心も、多くの人が当たり前に持っているようだ。


 だから、創作意欲と羞恥心の対立は、普遍的な問題なんだと思う。
 程度の差こそあれ、誰もが直面する。

 完全に自分に酔っていたり、自分に対して絶大な自信を持っていたりするような人間でない限り、この問題はついてまわる。


 著名な作家がこの問題に言及していたことで、俺だけではないんだと知った。


 まず、漫画家の小池一夫

 いや本当に、その通りだ。


 同じく漫画家の、大友克洋

ストーリー漫画はかっこ良くないとダメ!!
恥ずかしがってちゃ描けないよ!!
(中略)
――漫画ってのはどうしても自分が出てしまうものなんですかね?
自分を出さないとダメ!!
どんな表現であろうと自信なさげに恥ずかしそうにやって受ける訳がない!
恥ずかしいものを見せられる客(読者)も迷惑だ!
ストーリー漫画とは「恥ずかしさ」との戦い!!
「恥ずかしい」と思う気持ちがなくなるまで深く掘り下げて考えることが大事!!

中川いさみのマンガ家再入門/中川いさみ 【第1話】 漫画家・大友克洋登場! 「漫画は恥ずかしさとの戦いだ」 - モーニング・アフタヌーン・イブニング合同Webコミックサイト モアイ

 これも全くその通りだと思う。
 強く共感すると同時に、とても普遍的な問題なんだと知った。


 お二人が仰っているように、恥ずかしがりながらやると、余計に恥ずかしいものになる。
 その通りだと思う。分かっている。
 だけど恥ずかしいのだ。


 どうすれば恥ずかしさを克服できるだろうか。
 恥ずかしさ、に囚われている限り、創作が上手くいくことはない。

 恥ずかしがりながらやれば、余計に恥ずかしいもの(みっともないもの)が出来上がる。これは間違いない。
 「照れ」は、必ず創作物に反映される。中途半端になるし、変な自意識が作品に現れてしまう。

 振り切らないといけないのだ。
 恥なんて全く眼中になく、作品や自分に深く入り込んでいる状態になる。


 恥ずかしがる姿は、もっと恥ずかしいからな。
 恥ずかしがりながら書いたものは、読んでいるほうがもっと恥ずかしい。
 本当にその通りだよ。


 一つの手段として、予防線を張る、というものがある。
 「これはネタですよ、ギャグですよ、真面目にやってるわけじゃないんですよ」と、自他にエクスキューズする。
 これはやりやすい。
 真面目な内容より、振り切った「ネタ」のほうが恥ずかしくない。

 上に引用した漫画の作者はずっとギャグ漫画を描いてきたらしいが、*1「真面目なものは恥ずかしい」と悩んでいる。
 これもよく分かる。


 ギャグ漫画、パロディ、バカゲー
 そういったものは、あんまり恥ずかしくない。
 作者自身が、俯瞰で見ているからだろうな。

 メタ、というやつか。

 作品からちょっと離れたところに立っていて、読者と一緒に作者も笑っている。そんなイメージ。


 だが「真面目なもの」は違う。
 作者もそこに入り込むことになる。俯瞰的な立場に立つことは出来ない。
 今度は、読者と同じ側に立つことは出来ない。読者との間に明確に一線が引かれ、作者は完全に、批評される側だ。


 コントを演じている自分を笑ってもらうのと、素の自分が笑われてしまうのとくらいには、違いがある。*2


 「ネタ」は、やりやすい。
 だがそれでは、創作の幅はかなり狭まってしまう。
 「ネタ」だけでは、自分のこの歪んだ自己顕示欲は満たされない。
 それに、パロディはあくまでもパロディだ。オリジナルではない。

 少なくとも俺にとっては、「ネタ」にばかり走るのは、逃げだ。批評される側に回ること、その恥ずかしさに耐えることからの、逃げ。

 「ネタ」も好きだけど、恥を克服する手段として「ネタ」に頼るのは、違う気がする。


 テクニックを身につけることで、克服できるだろうか。

 俺は、テクニックや技巧が全くない。非常に拙い。ド素人だから、当然だけど。
 そのことも、恥に拍車をかけている。

 みっともないものを晒せば、恥ずかしいのは当然だ。

 では、テクニックを磨いて、技巧を凝らせるようになれば、恥を克服できるだろうか。


 それはあるかもしれない。
 技術があれば、自分のなかにあるものを、もっと上手く表に出せるだろう。そうすれば、恥は軽減するかもしれない。
 自信を持って、創作できるようになるかもしれない。


 しかし、テクニックを磨くためにはとにかく場数を踏むしかないし、となれば結局、恥を掻くことになる。
 テクニックを手に入れることで恥を回避できるとしても、そのテクニックを得るためには、恥を掻かないといけないのだ。


 それに、名だたる作家陣がこの問題に言及していることからも、単にテクニックではどうにもならない気がしている。
 先ほどのギャグ漫画家にしたって、テクニックそのものは十分にあるだろうし。それでも、「真面目なものは恥ずかしい」のだ。

 大友克洋の次は松本大洋が出てくるが、彼も、「かっこいいシーンは自分に酔って描いた」と言っている。

 技術ではなく精神の問題なんだと思う。


 結局、どうすれば恥ずかしさを乗り越えられるのだろうか。分からない。

 ただ、恥ずかしさがいきなりバチッと消える、ってことは有り得ないと思っている。
 自分の性格や心理傾向から言っても、それは無理だと思う。

 そうではなく、少しずつ慣らしていくしかない気がしている。

 作品に入り込む、自分に酔う、好き放題に表現する。
 そういうことを常に心掛け、少しずつ、それが自分にとって自然な状態になるようにしていく。

 今の自分には、それしか思い付かない。
 恥から逃げたり、途中で投げ出してしまったり、照れてしまったりするのではなく、やり切る。それを繰り返すことでしか、乗り越えられない気がしている。


 恥が完全に消えることは決してなく、毎回毎回、恥と向き合う。そのプロセスを省くことは出来ないと思う。
 ただ、何度もこのプロセスを繰り返すことで、慣れたり、自分なりのコツや対処法を身につけたりすることで、少しずつハードルが下がっていく。
 そんなことをイメージしている。

*1:クマのプー太郎』など

*2:志村けん内村光良が、「メイクや衣装をすると吹っ切れる、素顔だとあがってしまう」と言っていたが、それに近いものがあるかもしれない。