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正義と微笑

numb_86のブログ

社会的包摂についてメモ書き コミュニケーション再分配、など

 社会的包摂(排除)に対する関心が自分のなかで高まってきているので、整理するためにメモ書き。

概要

 社会的排除とは、その名の通り、ある個人から社会から排除されてしまうことや、そのプロセスのことである。

 もともとはヨーロッパでよく使われていた概念(イギリスのブレア政権など)のようだが、格差社会や貧困が問題視されるようになり、日本でも注目されるようになった。

 社会的包摂は、社会的排除の対義語である。


 日本でも格差社会や貧困などが論じられるようになったが、所得だけを指標にしていては、状況を捉えきれない。
 貧困も確かに深刻ではあるが、それだけでなく、もっと多元的に捉える必要がある。

 そのためには、人間の生や社会に対する、深い理解や洞察が必要になるだろう。

社交、人的ネットワーク、コミュニケーションなどの重要性

 人間が生きていくうえで、社交や人的ネットワークは重要である。
 貧困や引きこもりの文脈でこれらの要素について言及されることも、多くなった。
 ここに注目しないと、現状を正しく分析したり、有効な対策を考えたりすることが出来ない。


 経済的にさほど恵まれていない人でも、人的ネットワークさえあれば、それなりに幸せに生きられたりする。
 ネットで人気の「働かない生き方」のようなものは、その一形態だろう。
 一時話題になった「マイルドヤンキー」も、経済的要素よりも社会的要素に重きを置いて人生を豊かにしている人たち、と解釈できるかもしれない。


 しかし社交や人間関係は、誰でも得られるものではない。
 現代社会ではそれらは、各自が自力で手に入れないといけない。自由で過酷な獲得競争になっている。

 ここで、社交や人間関係を獲得・維持するためのコミュニケーション能力が重要になってくる。

 だから、所得もコミュニケーション能力もない人達は、非常に苦しい立場に置かれる。
 物質的な豊かさは得られず、人間関係の構築にも難儀してしまう。

 経済的要素に振り回されない人生、というのは常に一定の人気があるが、孤独な人がそれをやるのは非常に難しい。

『怠け者ならば、孤独にはなるな。もし孤独ならば、怠け者にはなるな。』(P110)
「働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち」トム・ルッツ 著 | Kousyoublog


集まってると死ににくい - pha著「ニートの歩き方」特設ページ


社交と所得の関係

 このように、所得だけに注目していては、重要な点を見落としてしまう。格差社会福祉政策について、十分に議論できない。

 「勝ち負け」や「格差」は、労働市場にだけ存在するのではなく、コミュニケーションや社交の分野にも存在するのだ。

 そして、この2つは別々のものではあるが、無関係というものでもない。


 仕事を得るためには、コミュニケーション能力が必要である。
 現代では、特にその傾向が強い。
 だから、社交性が低く思うように人間関係を構築できない者は、就労にも苦労してしまう恐れがある。


 また、日本では企業がコミュニティの役割を果たしてきたという側面があるため、失職すると、収入の手段だけでなく、コミュニティを失うことにもなりかねない。

 そのため、派遣やギグエコノミーの問題は、単なる経済問題としてだけではなく、コミュニティから切り離されてしまっているという文脈でも、論じられるべきだ。

産業主義や市場主義との関係

 そして実は、孤立する人が増えてくるのは、近代主義の必然とも言える。

 近代以降に発達した産業主義や市場主義は、前近代的な共同体や、封建的な秩序を破壊することになる。
 共同体や秩序を破壊して「個人化」を進める方向に進む。
 市場主義は「自由な市場」を必要とするため、必然的にそうなる傾向を持っている。労働市場も自由化が進む。


 通常、それ自体は喜ばしいものとして語られることが多い。封建的な抑圧から個人を「解放」したとして。


 しかし実際は、別の形の抑圧を生むことになった。
 市場という抑圧。市場社会に適応することが強いられる。「経済的人間」として振る舞うことが要求される。
 それは、市場への依存とも表現できる。
 市場でしか生きられず、そこへの適応に失敗してしまうと、一気に苦境に陥る。

 市場以外の要素、例えば共同体や家族などの相互扶助が残っていれば、市場に適応できなかった人でも、経済的にも社会的にも生存できる。飢えないし、孤立もしない。


 逆から見れば、市場への適応にさえ成功すれば、非常に生きやすい社会であるとは言えるかもしれない。
 あらゆる領域を市場が覆っている現代社会では、カネさえあれば多くの問題を解決できる。

 とはいえ、孤立という問題は残る。
 市場主義はほぼ必然的に孤立を誘発する、という視点は重要だと思う。


 ちなみに、実は共同体や秩序などの「社会」こそが市場の土台であり、それがあってこそ市場は機能するのだが、市場化は、それを進めれば進めるほどに自己の基盤である社会を解体してしまうという、深刻なジレンマを抱えている。
 が、これについては、また別の議論である。

「自分」という物語

 孤立が深刻化すれば、健全な自己認識を維持、涵養させることが、困難になってくる。


 自己は、「自分という人間の物語」によって成立している。
 自分はどういう人間か、どのように生きてきたか。それを一種の物語として認識することで、自己や自我を保てる。

 だがそれは、自分一人だけでは、成立しない。
 自分自身でいくら自分のことを語っても、そこに説得力や客観性はないからだ。
 本当にそうだろうか、という不安が常に付きまとう。自分の紡いだ物語に対して疑いを抱いてしまう。

 だから、他者がその物語にある程度の「納得」を示してくれることで、安心を得られる。
 他者との関わりのなかで、自分が抱いている物語の妥当性について確認し、安心する。
 他者との双方向の関わりのなかで、自分はこういう人間だという認識を深めていく。

 また、他者は、自分の過去と現在を結びつける役割も果たす。証人としての役割。
 自分という人間の同一性を確認できる。

 そのため、他者が不在だと、自分の存在について常に不安に脅かされることになる。


 そして他者は、安心を与えてくれるだけでなく、その言動で、新しい視野や認識を与えてくれる。
 自分の物語に、広がりや奥行き、多様性が生まれる。

 他者が介在しない自己物語は、過度に単純化され、どんどん独り善がりで偏狭なものになっていく。
 過剰な被害妄想を抱いたり、他者や社会に対する身勝手な敵意を抱いたり。

対策1 居場所について

 社会的包摂を実現するためのアプローチとして、どのような手段があるだろうか。

 居場所、というのはよく言われる。実に様々なマイノリティや社会問題の議論で出てくるワードであり、もはや定番と言っていいだろう。

 では、居場所というのは、どのようなものが望ましいのだろうか。
 とにかく場さえあれば何でもいい、という訳でもないだろう。
 何もないよりはずっとマシだろうけど。

 そういったことを考える際に、例えば、先ほどの「物語論」などが参考になるだろう。
 居場所に求められている役割や機能とは何か、それを成立させるための条件は何か。


 居場所やコミュニティが生み出す抑圧、についても考えないといけない。

 市場化が共同体を解体し孤立を推進してきたと書いたが、我々がそれを望んできたのも事実だ。
 抑圧的で閉鎖的な共同体を嫌悪し、逃走して、近代化や都市化を進めた。

 この問題をどうするかも考える必要があるだろう。
 風通しをよくすべきだが、そのために流動性を高くしすぎても、居場所として機能しない。
 例外もあるが、居場所としての役割を果たすためには、それなりに密度のある交流が必要だろうから。


 強制力のある集まりというのは、その運用方法やさじ加減さえ間違えなければ、コミュニケーション弱者を社会につなぎとめるのに有効だと思う。
 もちろんそれを「引きこもり対策」のようなものに応用してしまうと、スパルタ式の合宿施設のような地獄が出現してしまうけれども。

対策2 コミュニケーションの再分配

 コミュニケーションの偏在、という問題にも対処しないといけない。
 格差社会が論じられるようになって久しいが、コミュニケーションにも明確に格差がある。
 その状態を放置して、全てを自助努力や自己責任でやらせるのは、かなり厳しいのではないだろうか。

 以前のように封建的な共同体が残っていた頃は、それでもよかったかもしれない。
 だがそれが衰退し、コミュニケーションの重要性が高まっている現代では、無理だろう。


 コミュニケーションとカネは、非常に似ている。
 どちらも、現代社会で生きていくのに不可欠な要素だ。
 そしてどちらも、「自由競争」で獲得しなければならない。
 それでいて、それを獲得する能力には非常に大きな個人差があるという点でも、両者は似ている。

 そのため、その状態を放置すれば必然的に、コミュニケーションの偏在が生じる。
 豊かな者と貧しい者の格差。


 カネが、税金や社会保障などで再分配されるようになったのと同様に、コミュニケーションも、何らかの形で再分配しないといけないのかもしれない。

 そうしなければ、排除される人間は絶対に減らせないだろう。零れ落ちる人間は一定数存在し続ける。資本主義社会についていけない人間が、一定数生まれてしまうように。

参考文献

川端祐一郎『我々は「居場所」を作り出せるのか』
表現者』2008年9月号に収録